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演劇活動による認知機能

コロナのころ、2週間ばかり演劇教室に通った。
たしか10回ほどのワークショップで前半は創作ワーク(個人)、後半は参加者それぞれの創作を題材にした芝居稽古(グループ)。そして最後に公演を行うという流れだった。

私の芝居経験(?)は学童時のお遊戯会どまり、そんなシロウト(しかもシャイなミドル)が習うにはちょうどいいサイズかもしれないと思い、恥ずかしさもあったが参加させてもらった。

町が取り組む市民活動の一環で、公演は市民ホールで行う予定とされていたが、コロナ自粛もあって小さな講義室みたいな場所でささやかに行って終わった。

受講者は15名ほどで年配の方が占めた。定年で余暇を過ごし音楽発表などをやってる人、昔芝居をやっていたという人、今も小さな芝居または朗読を行なっている人など、初日の自己紹介を聞いて、ズブのシロウトは私ぐらいであった。

そんな初心者ではあったが、仕事を通して役者に接する機会が数年あり、厚顔無恥を承知で演劇教室を受けようと思ったきっかけは、その機会の中から自分が感じたことを実証したくなってしまい、色々と楽しんでみたかった。

昔から映画もドラマも舞台も観る側で楽しんでいるが、自分が演じたいと思ったことなどこれまで一度もなかった。それが、仕事の中で芝居稽古に接する機会に触れ、会社員の中で営業メインの仕事してきた自分には、彼らに対して素朴に思うことがいくつか生まれた。

それは役者たちの生き様。普通の会社員とは違った人間社会を形成し、普通の会社員とは違うライフワークの求め方をしている。役者といっても興業収入のいい映画やテレビに出演するような人たちでなく、名は知られずとも芝居という世界に没頭する多くの人たち。決して稼ぎがいいとは思えない、役者だけでは飯は食えない個人事業主たち。けれど、役者を生業としている。芝居の話になると、生き生きとする。次の役が決まると、髭を蓄えたりと役づくりに入っていく人もいる。最初は「(だって儲からないじゃん。なにが楽しいの?儲かること考えようよ)」そんな邪推でしか見れなかった自分だったが、時間が経つにつれ、会社員として冒されてきた自分の心に疾しさがあることに気づき始めた。自分より全然人間らしい生き方をしている、と。

役者を目指した、でもダメだった、だからやめる、と1年や2年そこらで浅く抜けていく若い人もたくさんいる。人それぞれ、思いもそれぞれなので、一概にはどうこうとは言えない。

一方、長く続ける人の中でも、会社員また経営者であったら、どうだったんだろうと思ってしまうような社会不適合的に映る人もいる。しかし、それもまた自分の勝手な邪推に過ぎず、そもそも彼らはそういう世界には自ら身は置かないだろう。

さて、ズブの素人がたった10回ほど体験をした演劇教室。実はそこで一番やってみたことは「発声稽古(ボイトレ)」だった。残念ながらそれは出来なかったのだが、「創作」する時間は思ったよりも楽しめた。自分自身が物語を創作できることもあるが、それ以上に参加した一人ひとりの創作性に人間の脳が織りなす面白さを感じた。

ミドルからシニアの大人たちの自由な構想。家族を舞台にしたもの、ぶっ飛んだSFといもいえる未来を物語ったもの、私は幼少の原体験に基づくものを綴った。

その中で、もっとも印象に残ったのが、70歳代男性の方が描いた作品。

内容はといえば、ご本人が中学時代の、いわば蒼い時代の異性への想いをモチーフにした話で、文学的な、やや官能も入ったような、とはいえピュアな、「保健室」「包帯」といった艶かしさも匂う、距離がある男子と女子の短編ストーリー。

 正直、申し訳ないが、ちょっと最初はキモっと感じてしまった。
 「(おっさん、いくつだよ!?)」と。

しかし、その感じ方は後々改めることになる。
自分の脳内に蔓延ったどうしようもない、ただの営業サラリーマン経験を積んできたバイアスだ、と。

ほとんどの人が経験したであろう、蒼いとき。自分にもあった。
好きな人のことを想像する、考えちゃいけない、でも、考えてしまう、あぁといった感覚の蒼さが中学時分は特にあった。70歳代の男性はそれを思い起こし創作にしようと真面目であった。

それぞれが自分の仕上げた創作を読み上げ、互い気づきを伝えあう。そして尺に合わせた完成台本のような形まできて、設定されたグループで配役を決め、まずは読み合わせから徐々に芝居稽古へと移った。

創作のときは思いのほか集中したが、芝居稽古になると言われるがままの状態で特にこだわりが見つけられなかった。

が、70歳代男性のこだわりはすごかった、その方に限らず、他の方々も自分の創作はもちろん、他の人の創作についても真剣に議論を行い、いつも時間はオーバーしていた。すでに会社員をリタイアされた方もいれば、ずっとフリーの形で長くお芝居を続けられている方、ちょっとした雑談の中から人生の浮き沈みを打ち明けてくれた方、それぞれがその時間に集中し、ぶつかるような感じで、10日ほど前に知り合ったそれぞれの人生には関係がなかった集まりの中でひとつの完成形を目指す。それは熱かった。

実証というか、体験というか、その場で確かめたかったひとつとして、以前に知った演出家の蜷川幸雄さんが生前に取り組まれた高齢者演劇劇団のような姿だった。

 自分の中にある記憶や空想を巡らせ文字に落とす、与えられらた役(存在意義)に応じた立ち居振る舞いの中での役割を自覚し、演じる、なりきる、やりきる。セリフを覚える、セリフを通して「愛してる」も「ばかやろー」も泣くも笑うも存分にパフォーマンスする。最初は恥ずかしい、恥ずかしいし照れるが、その殻が徐々に破れていく。チームを支える、チームに支えられる、チームで悩む、チームで達成感を味わう。スタンドプレーはできないがチームプレーの中で自分を輝かすことができる。それを観て、誰かが感動を覚える、そのための稽古、そのための舞台。セリフには役者本人の生き様も時として入る。同じセリフでも色が変わる。脳が動く、考える、穴をあけられない存在の責務が生じる。現役時代に味わった快感はもうこない、しかし、演劇の中であれば、まだまだ自分が表現できる。それは認知機能を活かしたことにもつながる。そういう仮説の話でした。


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