菩薩

母はどういう人だったかと問われれば、私は、迷うことなく、菩薩のような人だったと答える。

折に触れて思い出す母も、夢に出てくる母も、写真に写っている母も、みんな穏やかなやさしい顔をしている。

すべての不条理を包み込んでくれているような、そんな母であった。

母の生い立ち

母の名前は、エイと言う。カタカナで「エイ」である。1919年(大正8年)3月10日に熊本の小川町というところで生まれた。

この当時、女の子の名前をカタカナ2文字で命名するのは普通に行われていたようだ。

その名前の由来はついぞ本人に聞けなかったが、終戦後に、自分の名前を昭和風に「栄子」と書くようになったところからすると、母の父母が「エイ」に「栄え」の意味合いを込めて命名したと思っていたのではないかと推測される。

この小川町近辺は八代平野の北部に位置し、広大な田畑が広がる土地である。その地の小地主の家の3人兄妹の2番目か3番目の子供として生まれたと聞く。ある意味、お嬢さんではあった。

その後の母の人生

その後、母は、地元の小学校を出、旧制高等女学校を卒業し、地元で就職したものの、その後、時代を揺るがす戦争に巻き込まれていく。

そして終戦。

その当時の例にもれず、終戦後に人の勧めで父と見合いをし、結婚。2女2男の4人の子供を設ける。既述の通り、私はその4番目の子供である。

父は6人兄弟であった。したがって、母は、父の父母(祖父祖母)と5人の兄弟がいる長男の家に嫁いできたこととなる。いきなり大家族(祖父祖母、叔父叔母とその家族を含め一時期的には10~12人くらいはいたようである)となったのだ。

この大家族に加え、裕福でなかったことなどから、母も山の仕事や畑の仕事をやりながら大家族の面倒を見ることとなった。それはそれは大変だったと聞く。

昭和30年代前半までに、大家族を構成する叔父叔母達がそれぞれ家を離れて生活するようになった。

それから家は4人の子供たちが中心となって行った。今度は4人の子供たちの教育が待っていた。

が、病魔が母を襲う。甲状腺の病気である。放射線照射による定期的な治療が必要となった。母はそういう状況のなかでも山の仕事や畑の仕事をしながら子供たちを育てた。

当時のことを思い出す度に、井上陽水の歌を思い出す。

「子供だけの為に 年とった 母の細い手 つけもの石を 持ち上げている そんな母を見てると 人生が だれの為にあるのか わからない 子供を育て 家族の為に 年老いた母」(人生が2度あれば)

感謝。

母の口癖

いろんな困難を経験してきたからか、母には口癖の言葉がある。

「死にゃせん」

ちょっとやそっとのことでは人間は死なないから、いちいちあわてたり怖がったり恐れたりするな、の気持ちが込められた言葉である。何度この言葉に助けられたことか。

というか、やはり母は強いなと思う。最初から? それとも、子供たちを育てながら? 子供たちを育て上げた自信から? 何があっても泰然自若としていた。

この言葉、今の私の口癖になっている。

母の旅立ち

1995年(平成7年)4月18日、母は次の世界へ旅立った。享年76歳。その時も母はやすらかで穏やかな顔であった。すべての不条理を包み込んでくれる菩薩のように。

最後に

私は、noteにおける記録を始めるにあたり、書き出しを父と母から始めると決めた。この父があり、この母があってこそ、今の自分があるからだ。

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父や母のことは、とても言い尽くせるものではない。これからも折に触れて書いていきたい。




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