24.04.27 ハンマーヘッド

数年来の友達と久しぶりに二人で会う。横浜のハンマーヘッドには常に海外の缶ビールの在庫を異常に抱えたセブンイレブンがあるというので、そこでビールを買って横浜港の近くで外飲みをした。彼とは抽象的な話題についての議論ができるので会う度にとても楽しい。せっかくなので、取り留めもなく話したことを文字に起こしてみることにした。

「可愛いもの/好きなもの」
通りがかる犬や猫を可愛いと思うか。僕は動物よりも人間の赤ちゃんの方が好きで、赤ちゃんの動画をよく見ている。友達は、犬や猫の動画は気軽に可愛さをそのまま享受できるが、YouTubeに上げられる赤ちゃんの動画を見ると、どんな属性を持った人に見られるか分からないこの時代に、顔出しをしても大丈夫かという心配が勝るのだと。

話は変わって、僕は好きな人に対して可愛いと思う気持ちと、赤ちゃんに対して可愛いと思う気持ちが根本的に同じである。強いて言うなら性的な欲求がそこに付帯されたら、それは好きな男になる。友達にとっての好きはそうではなく「憧れ」だ。三島由紀夫の『仮面の告白』で提示されているのは「憧れ」への執着であった。彼はあの本を読んだ時に、初めて自分の気持ちが一般的なものだったのだと認識したらしい。でも、僕が赤ちゃんや好きな人に対して抱く感情の中には、その純粋さへの「憧れ」も含まれている気がした。

「求められる役割」
好きな人とやりたいことが沢山ある。横浜のロープウェイに乗ってデートをする。ディズニーランドに二人で行く。旅館に泊まって部屋食をとる。そして、僕はいつかどうしても結婚式をあげたい。友達は結婚式を上げたいという気持ちが本当に理解できない。誰かの結婚を祝う気持ちはあっても、結婚式に出席して自分が払うコストにどうしても見合わないのだと。そのコストとは、言語化すると、何があっても必ず祝う立場でいなければならないという、強制的に設定された役割を全うすることの負荷であるらしい。仕事として対価を貰うのであれば、その対価と天秤にかけた時に、負荷を甘んじて受け入れるが。

役割を全うすることを求められるのはゲイバーも同じだという話をする。彼は同じ理由でゲイバーには行かない。僕は負荷を感じるという点では同じだけど、その負荷は、その場で得られる楽しさに上書きされる。負荷を感じても、その重さが人によって違うのだという気づきがある。そして、世の中にはそんな負荷の存在すら感じずに、自由に振る舞う人もいるから面白い。

「死にたさへの共感」
鬱屈とした気分の時に聴きたい音楽がある。その鬱々しさにぴったりとハマり、励ますのでも寄り添うのでもなく、ただただ鳴っている曲。そんな時、僕は自分の気持ちを代弁してくれているように感じて、多少なりとも救われる。友達は「お前に何が分かるのだ」と感じるらしい。今の自分の辛い気持ちこそが本物であり、したり顔で「そうですよね。分かります。」と共感されたくないのだと。

僕の根底にある「共感したい」という概念に真っ向から対立する「お前に何が分かるの」という気持ち。それすら多少なりとも理解できる気がして、でもそこに「共感」というアプローチを用いることは罪だなと思う。ただ、彼もまた自分よりも過酷な境遇にある少年が「常に心のどこかに死にたい気持ちがある」と呟いたのに対して「わかる」と反応してしまった。たぶん「お前に何が分かるのだ」と思われただろうと。僕はそれでも、共感してくれた彼の存在自体が、少年にとっての救いになることもあるだろうと思った。

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