24.02.24- 能楽堂

2024.02.24
早起きして千駄ヶ谷の能楽堂にライブを観に向かう。千駄ヶ谷は通勤で毎日通過しているが、駅で降りるのは数年ぶりだ。そして、僕は東京にずっと住んでいるのに新国立競技場を初めてこの目で見た。

国立競技場に思いを馳せたことなど、今までたぶん1秒もなかった。でも『東京都同情塔』を読んだことで、その造形に興味が湧き、偶然にも目にすることができて嬉しく思う。同時に、自分は改修前の国立競技場に小学校の体育大会から、社会人一年目のマラソン大会まで、何度も足を運んでいたことを思い出した。あの競技場が改修されることになり、一度は決まったザハ案がなかったことになり、コロナ禍で反対を押し切りオリンピックの開催場所となり、ひいては小説にまで登場した、国立競技場だったのだと、今更になって気付いた。それくらいには興味がなかったのだ。

『東京都同情塔』は読書会の先月の課題本だった。僕は今月の読書会に参加しようと思って、間違えて先月の課題本を買ってしまった。偶然で手に取った本だったが、抜群に面白かった。

そんなことを考えながら競技場の反対側にある国立能楽堂に地図を見ながら向かう。既に開場を待つ人の列ができているだろうという予想に反して誰もいないので、不安になって会場を改めて調べると表参道と書いてある。ここで初めて「能楽堂」は「競技場」のように、能をする劇場の一般名だったのだと知った。でも、千駄ヶ谷から表参道は思ったよりも近く、しかも100円で目的地まで連れて行ってくれるバスがあり事なきを得た。開場時間には少し遅れたが、ステージ目の前の良席で見ることができた。

MCで「枯れ葉」という映画がすごく面白かったという話を聞く。夜に予定がなかったので、ライブが終わった後、その映画を観に行くことにした。「枯れ葉」はフィンランドの映画で、決して恵まれた生活を送るわけではない、感情表現が苦手な男女の不器用な恋愛物語だった。その不器用さがいじらしく、そして美しくて、観ていて幸せな気持ちになった。

家に帰り、サニーデイ・サービスの24時のレコードを流し、スーパーで買ったお惣菜をつまみながら酒を飲む。自分の生き方もだいぶ不器用かも知れないけど、むしろ僕はそれがいいと思った。

2024.02.25
暗黙の了解という言葉がある。多くを語らない方が上手くやれるということだ。洗いざらい全部話して、認識を合わせれば、お互いに分かり合えるというのは幻想で、実際は「分かり合えない」という認識の解像度が上がっていくだけだ。それは悲しいことではなくて、距離を置くという選択肢も含めて、その相手との関係性を前に進めていくためのステップだとは思うのだけれど。

言葉というのは時に罪深い。なんとなく苦手で、でもちょっとだけ愛しくて、その場にいたら一挙手一投足が気になる人のことを「苦手」とも「愛しい」とも一言で表現できて、口に出した途端に、その片方だけが事実になってしまう。

僕は、お酒を飲んだら、酔って前後不覚になり、好き勝手に色々なことを話して、話したことすら忘れてきた。たぶん、周りは「こいつはそんなことを考えてたのか」と呆れたり驚いたりするだろうが、別にそれで構わないと思っていた。でも、自分の発した言葉は、独り言ではなくて誰かとの対話であり、呼応した誰かの何かを変えたりする。酔っていようがいまいが、自分の吐いた言葉には責任を持つべきではないか。

前後不覚になっても、理想的な自分のままでいられれば、自分の言葉に責任を持てるだろうか。でも、そのためにはそれだけ人間的に成熟しなければならない。そして、人間的に成熟するということは、それは前後不覚になるまで飲まないということなのだと思う。頭では分かった気になっているけれど、なかなか行動が伴わない。

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