unlearn 学びほぐす

哲学者の鶴見俊輔(1922-2015)が、NYの日本図書館でヘレン・ケラー(1880-1968)と会った時の話です。鶴見が17歳の時ですから、戦前です。 

 私がハーヴァードの学生だとこたえると、自分はそのとなりのラドクリフ女子大学に行った、そこでたくさんのことを「まなんだ」が、それからあとたくさん「まなびほぐさ」なければならなかった、と言った。

 たくさんのことをまなび(learn)、たくさんのことをまなびほぐす(unlearn)。それは型どおりのスウェーターをまず編み、次に、もう一度もとの毛糸にもどしてから、自分の体型の必要にあわせて編みなおすという状景を呼びさました。ヘレン・ケラーのように盲聾唖でなくとも、この問題は、学校にかよったものにとって、あてはまる。最後にはみずからのもうろくの中に編み込まなければならない。これがむずかしい。今の自分の自己教育の課題となる。そのことにそのころは気づかなかった。(鶴見 1999: 107-108)

鶴見俊輔(1999)「まなびほぐす」『教育再定義への試み』岩波書店、pp. 106-127.

今まで知識として記憶していて、学んだつもりになっていたたくさんのことを“まなびほぐす"必要を感じています。特に社会人になってから大学で学ぶ人に関わっていると、unlearningとして学びが大切なように思えます。それにしても「まなびほぐす」は良い訳語です。

私は仮説実験授業に魅力を感じるのも「まなびほぐす」ことができるからです。突然「仮説実験授業」と書きました。これについては別に書きます。2022.10/2執筆 2024.3/19改稿してnoteに投稿。


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