見出し画像

一年前、一時心肺停止になった。

一年前の昨日、障がいを持つ次女を
デイサービスに送り、そこからまた30分かけて、来た道を戻り仕事へ行く。という予定だった。

朝、家を出る時に空を見上げる。
滅多に外出できない娘に外の空気感を味わってもらう。
その日は、澄んだ綺麗な青空に、まだ少し
日差しの弱い太陽が出ていて、それをうっすらとした虹がぐるりと囲んでいた。

「見て~!お日さまの周りに虹が出てるよ!
今日絶対良いことあるね!」
なんて話しながら、一息吐き、新年になって間もない空気を胸いっぱいに吸い込んで、
気持ちよく深呼吸をした。

施設に着いて、新年の挨拶を交わし、いつもと同じに娘を見送って、私も見送られて仕事へ向かった。

仕事に入って15分ほど経った頃、職場にデイサービスから電話が入った。体調で心配事は無かったから、何か忘れ物とか、送迎の確認か何かの電話だと思った。私が電話口に替わったとたん、事務のお姉さんが
「今、Yちゃん(次女)がチアノーゼが出てしまって、救急車を呼びました!お母さん、すぐこちらに向かって下さい!」と慌てふためいて一気に喋った。
もちろん、すぐに飲み込めない。
色々聞きたいが、急を要するので、とりあえずパート仲間に事情を話し、さっき通ったばかりの道をまた急いで車を走らせた。

途中、また電話がきて、
「かかりつけの病院が受け入れたので、
そのまま病院へ行って下さい!」とのこと。

私は急ぎつつも、飲み込めていないから
割りと冷静に運転し、チアノーゼも経験しているので、それ程焦ってはいなかった。
その辺の感覚が少し麻痺してるのかもしれない。

病院について、救急の受付に行くと、いつも担当してくれているデイサービスのスタッフがボロボロと泣きながら
「お母さん、ごめんなさい!ごめんなさい!
看護師がいながら気付けずにごめんなさい」と開口一番で謝罪してきた。

そこで、ようやく、一時心肺停止状態だったことを知った。

娘がデイサービスに着く時間は、家族の送迎であることを配慮してくれていて、施設側の送迎よりも若干遅めの入り時間で、到着時はだいたい入浴の準備やらで相当バタバタしている。
それでも、娘の近くを「通る度に気にかけて様子を見ていた。」とは言っていたけど、
恐らく、痰の詰まりに気づけていなかったのだろう。気づいた時は顔面蒼白で呼吸の確認ができなかった。という。
すぐに心臓マッサージをし、救急車を呼び、蘇生に全霊を注いだそうで、救急車が到着した時には心臓は再び動いていた。と聞いた。

そこまでの説明を聞いても、なんだか頭の中は全く整理できず、今思えば寛大すぎる対応をしてしまった。
「心臓マッサージしてくれてありがとうございます」と礼を述べ、
「あの子は強いですから、
きっと今は落ち着いていると思います」
と、いたって冷静だった。…と思う。

何故か生死の心配はしていなかった。
心の底から信じていた。このまま死んでしまうという考えは微塵も思わなかったから、
家族の誰にも連絡はしなかった。

どのくらい時間が経っただろう?救急外来のドクターが私を呼んだ。
救急の処置室に入ると、思った通り、いつもと全然様子の変わらない娘がベッドにいた。
当然のことと思った。

そして先生が経緯を説明し始めた。

ところが、その辺のことを私はほとんど覚えていない。デイサービスのスタッフさんとの話しでうっすら状況の想像はしたけど、
どこかしら自分事と考えられていなかったみたいだ。
静かにパニックをおこしていたのかもしれない。

ただ、絶対に忘れられない状況がある。

一通り説明した後のドクターの発言だ。

「で、今後もまたこのような事が起きた場合、どうしますか?」

…は?どうしますか?って何が?

「どこまで延命措置をしますか?」

…ちょっと意味が分からない

「恐らく、これからも同じような事があると思います。救急車を呼んで、心臓マッサージをして、それでも助からないことはあります。在宅介護の場合、救急車を呼んで延命措置をするよりも、訪問医に来て頂いて、
最期を迎える方が在宅の良い部分だと思います。一度その事をご家族で話し合われた方が良い段階だと思って下さい。」

これにはフツフツフツと怒りが沸いてきた。
さっきまでなんとなくポカーンと抜け殻のように居た私は怒りと戸惑いのような感情に満たされてきた。

娘が眠っている事を願い、怒りを押し殺し、声を抑えて私は言った。

「それって、本人の前で言う話しですか?
その答えをここで言うような話しですか?
正直、何も分かりません。そんなこと急に言われても何も考えられません。
実際、今日心臓マッサージで助かってるじゃないですか。そしたら次だって生きてほしいって思いますよね?そんなこと、何を目安に決めるんですか?」

「では、とりあえず心臓マッサージをして、やれることは全てやる。という方向で」
みたいなことを言った。

「今日はありがとうございました」
助けてくれた事実には心から感謝したので
私は頭をさげた。

話しにならないドクターだな。と感じてしまったから、もうこれ以上は話すことないな。
と思って、そこでやめた。

…やれることはやって、、って、
そりゃそうだろ。

心臓マッサージのダメージであばら骨が折れる。という話しは聞いたことがある。
たぶん、そういったリスクを話したかったんだろうけど。

…無機質で、温かみを感じさせない顔に
ぴったりの発言をした女医さんだった。

このやりとりで、
救急の現場は甘くないことが分かる。
その時、その時で判断していくことができなければいけないのだと分かる。
そこに感情を込めていては間に合わない事もあるだろう。
…感情はどこにおいてあるんだろう?

処置の為ハサミで切られた娘の服がギュッと無造作に入れられた袋を握りしめ、
私も、やはり同じように冷めた顔で
女医さんを少し不憫に思っていた…


その後、数日間は救急病棟で過ごし、何事も無かったかのように娘は日常を過ごしてくれていた。
少しずつ頭が整理されてきた私は、今更その事がどれだけの事だったか理解し始め、
ボロボロと涙が出てきた。とたんに恐ろしくなり、心細くなった。
救急病棟から、いつもの小児科病棟に移り、
ずっと寄り添ってくれてきたスタッフさんたちを見て、気が抜けてひとしきり泣いた。
娘が、今こうして穏やかにいることが本当に奇跡なんだ。と思った。

…娘の顔を覗くと、キョトーンとしたような顔をしていて、私はセンチな気持ちを放り投げ、ニヤニヤと笑ってしまった。



この頃、同時に考えなければいけないことがいくつかあった。
ひとつは、20歳を迎えるにあたって、この小児科に通えなくなるということだ。気管切開部のカニューレ交換、薬の処方、引き継ぎの病院をなんとかしなければいけない。
二十歳を境に病院を替えることが大変難しいテーマであることは全国的な問題になっているらしい。

ふたつ目は、これを機に、常時呼吸器を使用しなければいけなくなったこと。それは、
日常が今までよりも更に不便になるということだ。バギーに乗せる際、呼吸器をつけたまま移動できないため、一度呼吸器を外すことになる。今までのように私一人でその流れをこなせるのか?常に誰かしらの手を借りなければ日常を過ごせないのだろうか?
訪問入浴はどうなるだろう?

また、訪問医も新たにお願いしなければ心配な状況だ。引き受けてくれる医師を探さなければいけない。

娘が二十歳になるまで、あとわずか。
2ヶ月弱の間になんとか形だけでも整えなければ…。

ほんとなら娘の体調に集中していたい。
今がかけがえのない大事なひとときだから。

何から手をつけて良いか分からなくなる。


娘の状態が安定してきた頃、
担当医とその時の担当看護師、日頃を良く知ってくれている訪問看護師さんと私で、今後についての会議が開かれた。

私は相変わらず、何をどうしたら良いかわからず、考えすぎて疲弊してしまい、またもや脱け殻状態だった。
私の上空で会議が行われている感覚。
それでも集まってくれている皆さんは、
私を置いてきぼりにすることなく、ゆっくりゆっくり確認しながら話し合いを進めてくれた。
まず、私がすることを紙に書いて指示してくれた。
私は市役所の障がい福祉課へ行く。
そこで、「今までのように私と娘が動けるうちは、通院したい。」私と娘の体力を考えると、残念なことに通院する時くらいしか外出の機会がない。そのための手段として利用できる制度があるか?一連の流れがつかめるまで介護タクシーを利用できないだろうか?
それが無理なら私と一緒に行動してくれる
ヘルパーさんは頼めないだろうか?

市役所の担当さんが、こちらもまた本当に誠意のある対応をしてくれて、一緒に色々動いてくれた。
しかし残念なことに市によって異なる制度が多く、私の住む市では利用できないものばかりだった。
すっかり落ち込み、もう全部諦めてしまおうか。と思った時、病院の担当医から連絡があり、「隣県の病院が引き継ぎを受け入れてくれる。」という一報をくれた。
忙しい勤務の合間合間を全て「近隣で尚且、重度障がいを受け入れてくれる病院」に見当をつけ連絡してくれていた。
とても救われた。
そこから、本当にトントン拍子という感じで、引き継ぎ病院がバックアップしてくれることを条件に、訪問医が決まり、
外出時は訪問看護師さんが手伝ってくれることになり、不便があればその都度協力する意向を伝えてくれた。

あの時の会議から、私がいっぱいいっぱいになっていて脱け殻だった時には、周りのみんなが一斉に、物凄いスピードで動き始めていたんだ…。と、この時初めて知った。
どの人も、みんな嬉しそうに報告してくれた。一緒に涙をこぼして喜んでくれた。
…全てに安堵した時、根底に必ず「愛」があったことも改めて気づいた。



その後、退院する時も、退院後も徹底的にサポートしてくれて、私と娘は日常の流れをしっかり掴めるようになった。

3月の終わりに、娘は二十歳になり、
4月から新しい病院に通いはじめることになった。

あの頃、常時呼吸器使用に少し抵抗があった。なんとか今までのようにできないか。と
しがみつきたい気持ちだった。
病院を替えて、また1から関係を作ることも苦しかった。

新たな行動を考えることも実行することも
自信がなかったのだ。
そうした方が娘の体力的にも良いはずなのに、
受け入れて、新しい行動をしていくことが不安でもあり、正直、面倒と思ってしまったことも少なからずあった。

猛烈に考えて靄の中で日々を消化していただけの頃、ふと唐突に現状が頭に浮かんだ。

「考えてみたら、次の春は長女は新社会人、長男は高校進学。…ならば次女も新しい環境になることに何の問題もないじゃない。
子どもたちがみんな一斉に新しい環境に必死になったり楽しんだりする春が来るだけだ!
次女のことだって、長女、長男と同じように、何かあれば私は寄り添ってサポートすればいいことじゃん。」とすんなり思えた。

そしたらどんどん良い方向に向かっていった。
いつも何かに執着してしがみついては
バタバタする。そして、悩みに悩んで
疲れきった頃、ふと受け入れられる状況がくる。
そこからは目の前が明るくなってくる。
沢山の人たちの気持ちに感謝することを知る。
…靄の中にいるだけだと思っていた私の周りには、こんなにも愛情をかけてくれている人でいっぱいだった。




あれから一年。あれだけ悩んだのが嘘のように体調は今まで以上に良く、心配事はほとんどない。対応力の高い娘は、日常にすることが得意で、移動時の呼吸器を外す時の自力呼吸はバッチリだ。おかげで私も介助に困らない。今では看護師さんのサポートがなくても2人でやっていける。
姉弟2人も時に悩み、落ち込んだりしながらも良い経験をしている。

昨年と同じように、綺麗な青空の気持ち良い天気。
今がこのようにあることに改めて感謝の気持ちでいっぱいになった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?