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得意なことと好きなこと

私はバレエやピアノ、フルートだけではなく、乗馬や習字も習っていたが、勉強系のそろばんや公文などは全く習わなかった。

習い事でうまくこなせていても、単に得意なだけなこともある。上手だからそれが好きとは限らない。

私はバレエは最終的には好きになっていたけれど、ピアノやフルートのように上手に演奏できるから好きなんだと思われていたかもしれないが、やってる本人は全く好きではなかった。それがうまくできるだけ、得意なだけだった。
得意と好きは違う。

いつかバレエのように好きになったのかもしれないけれど、同じ期間続けていて苦痛しかなかったからきっと好きになることはなかっただろう。

習い事を好きになるかどうかは教師の持っていき方も影響はあるし、教師と生徒との相性もある。最初に付く教師によってそれが好きになるか嫌いになるか…大きくその後が変わることも多々ある。ただ努力である程度何とかなる習い事もあれば、生まれ持った体型などでどうにもならないことがあることに気づき好きだけど辛くてやめていくともあるだろう。
習い事を続けていくというのは本当に難しい。

習い事は、本人が好きであることが一番大切です。子供本人の気持ちを尊重しましょうと子供が通っていた保育園の先生から聞いたことがある。

どこの家でも子供が小さい頃は親が習わせたいものをさせるのがほとんどだろうし、親は子供のあらゆる将来の可能性を引き出してやりたくて習い事をさせるんだろうけれど、それがうまく子供にハマればラッキーだけど、私のようにうまくできても苦痛でしかなかった場合は子供にとって地獄でしかない。

年齢が上がるにつれて、今度はあれがしたい、これは嫌いだからやめたい、などの自我が出てきたりして習い事が変わっていったりすることが多いと思うけれど、私は全く自我がなかった。なかったのか、出させてもらえる機会がなかったからなくなっていったのかはわからない。私は習い事で「これがやりたい」と思って習い始めたものはない。全て親に言われるがまま習い始めたし、そしていくらつまらなくても嫌でも親がやめなさいと言うまで続けた。
あれをやってみたいな とかそんなことを思うこと自体許されないような、そんな感じだった。


もし私の親が私に習い事を続けたいかやめたいか、そういうことを仮に聞いてくれていたとしたら、私は答えを出せただろうか。
ピアノは嫌いだったしフルートは全く面白くなかった。でも好きにしていいよと言われたら、私はどうしていたかなと思う。

やめたいけど、、お父さんお母さんが悲しむやろうな。がっかりするやろうな。

これがまず出てくる。
自分はどうなの?と聞かれても、続けたいようなやめたいような…親にがっかりされたくない、だから続けようかなぁ。でも嫌やなぁ。こんな感じだろう。


それは結局

「誰かに決めてもらわないと自分で決められない」

これにつながっていると思う。

小さい頃から曽祖母や祖父母、両親は、、多分本人たちはそんな気はなかったのかもしれないが、無意識のうちに私を安全で親たちが思う最前最良のレールの上にのせていたし、私はそのレールの上を何も考えずに、、、というか考えるという必要性がなかったので歩いてただけなように思う。だから自分で何も決められない子供になっていた。

自分のことを自分で決めるのが怖い

なぜ怖いのか?と聞かれると

親の望む結果にならないかもしれないから。
仮に思った(良い)結果にならなかったら「ほらみたことか、だから言ったやろ」と言われるから。
失敗は絶対許されない。

こういうのが私の中にある。
これを親の呪縛と捉えるのか、親のせいにしているだけで私自身の単なる弱さと捉えるのか、、、

きっと後者なのだろう。

ただ45歳を超えた今でも、常に何かにつけてこの思いと戦っているように思う。

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