神激の歌詞、ここがいい!#18「黎明ジャンヌダルク」(フルレビュー)

https://youtu.be/gXTWIrb2yWg?si=7zjw294_6WMthqz0

「ジャンヌダルク」とは、フランスの聖人となった少女である。
神の声を聞く少女として、戦いを指揮し勝利を収めたが、反対する国内の勢力によって敵国に売り渡され、のちに異端の存在として裁判にかけられ、処刑されるが、のちに聖人として扱われるに至る。(だいぶざっくりなので、詳しくはお調べを…)
「黎明」とは夜明けのことであり、新しいことの始まりを指す言葉でもある。

いもこの歌詞の根底には常に、認められなかったころ、光の当たらないころ、批判されてきたころの「闇」のようなものがある。しかし、それは自ら閉ざした「闇」ではなく、その向こうに見える「光」を見ることを決してやめない、そういう「闇」である。誰もが少なからず「闇」を抱えたり、「闇」に覆われていたりする。だからこそ、多くの人がそこに対して共感しながらも、そこから「光」を見る姿に憧れ、そして希望を抱く。それがいもこの歌詞の力であるし、神激の曲の力である。
けれども、それと同時に、歌詞が人間性を表す1つの道標であるとすれば、そういう物事の見方のできる人が、生牡蠣いもこなのである。
そのことを、私は決して忘れずにいたいし、それをあなたに伝えたいのである。

さて、前置きはここまで。(長い)

「頑張れって言葉は戦士には酷らしい じゃあ この気持ちをどう表そうか 不甲斐ない夜がチクチクタク」


鬱や適応障害を抱えた人には「頑張れ」と言ってはいけないそうだ。日々「頑張って」いる人にとって、「頑張れ」と言うことは、まだ足りないぞと言うことと同じで、「酷」なことらしい。ではどうするのがよいのか。そんなことを考えているうちに夜は過ぎていく。それは相手に対してもそうだが、自分に対してもそうだろう。じゅうぶん「頑張って」いるのに、これ以上どうしたらいいのか。そんな両面がこの部分にはあるのではなかろうかと思う。
初めてこの曲を聴いたとき、なんだかとても嬉しかったことをよく覚えている。このことに関しては元々ひとつ決めていることがあるからだ。それは「頑張れ」の代わりに「ファイト」を使うことだ。同じに聞こえるかもしれないが、「ファイト」は今の「頑張り」を否定しない。あなたはじゅうぶん「頑張って」いる。だからその「頑張り」を続けることを応援する。その姿勢を表す言葉が「ファイト」なのではないかと思っている。

「ピカソが描いた作品やイメージも ある人はリアル ある人には落書きに見えた This world」

人の価値観や感性というものは様々である。誰かがよいと思うものを、他の人がよいと思うとは限らず、その逆もまた然り、なのである。現代社会は、ずいぶんこれを受け入れられるようになってきた。以前のように誰もが同じテレビ番組を見て語り合い、歌番組で流れる曲をみんながCDを買って聴く時代は終わり、それぞれが好きなものを好きなように楽しむ時代になった。それを誰もが不思議だとは思わないし、嫌だとは思わないだろう。
しかし一方で、好きでないものに対してはどうだろうか。好きなものを好きだと言える自由を得た代わりに、自分が好きではないものを受け入れないことも簡単になってしまったように私は思うのである。好きなものと嫌いなものの関係は、自由と責任の関係に似ていると思う。自由とは権利であるが、その代わりに他者の自由を侵害しないという責任を同時に持つという考え方である。自分が好きなものを受け入れるというのは、当たり前だが、たやすい。しかしながら、好きではないものを否定しないことは、とても難しい。自分が好きなものは否定されたら嫌なのに、自分が受け入れられないものは、つい否定したくなる。不思議なものである。自らが好きな「自由」を持つためには、本来好きではない「責任」を守らなければならないが、好きなものを選べるようになった代わりに、好きではないものまで選ぶようになってしまったように感じる。
もちろん、好きになる必要はない。だが、相手が好んでいることそのものを否定する権利はないのである。神激の現場は、本当にそういう意味では多様な楽しみ方が許されるし、その楽しみ方を否定せず受け入れてくれる人が多い。周りの楽しみを潰さない範囲で、自分が楽しみたい楽しみ方をする。それが許される現場というのは、決して多くはないのではないだろうか。(最近ひとつうーん、と思っていることもあるけど…)

「 叫んだ just stand up Statusは現場 四六時

番 狂うPIECE Test me 測れるなら 不慮の不運も苦労も敵もchaceも Every one 蹴散らす」

「四六時」はどうして途中?と悩んで調べてみると、恥ずかしながら理解ができた。「四六時中」は「いつも」という意味で使われるが、その「四六」とは「四×六=二十四」で「一日」を表す言葉だということである。(昔は12時間の二六だった)
私はラップにはまったく造詣がないので余計なことは言わないが、韻を踏むために変な辻褄を合わせていないことは、単純にすごいのではないかと思う。
さて、神激メンバーはよく「ライブを見て」と言うが、それは本当にその通りで、神激の正しい「Status」は現場でしかわからない。そこには「番狂わせ」と言わせるほどの力があり、はめるべき場所にあると思っていた「PIECE」(ジグソーパズルのピースで考えるとうまくいく)は、いい意味で「測る」ことはできず、すべてを「蹴散らす」力がある。ちなみに、この「Everyone」の中にある「chase」は「(流行などを)追い求める」という意味もあり、「流行りもの」への反骨心もしっかり込められている。

さぁ凹めば あとは昇るだけだ 道無き道 足跡を残す 君と歩く そこに咲く花こそ 存在証明のメロディ

もはや解説不要ではないかという、神激の開拓マインド。道のない道も、歩いていけばそこが道になる。中でも、「そこに咲く花」が「存在証明」の「メロディ」になるという言葉の繋げ方は本当に秀逸である。先ほどの「Statusは現場」と似た意味をもつと思っているが、「君と歩くそこに咲く花」とは、まさに「現場」の光景そのもので、メンバーと神者の掛け合いが、共にライブや楽曲をそこで完成させることになる。1度として同じライブはなく、その瞬間に出来上がった光景が、神激の「存在証明」であり、「メロディ」として聞こえてくるのである。

「 Dreaming girl still be here じゃまだ終われない 革命を共に謳うよ 何度も立ち向かったのは 君がいたから 勝ち取れ もっともっと」

「君」というのは便利な表現だ。いろんな広がりをもつし、誰にとっても大切な「君」がいて、自分も含んでもらえているように感じる。個人的には、ことのさんのよく使う「君ら」が好きで、集団を作る一人ひとりを見てもらえるように感じる。
私の尊敬する作曲家さんは、いつもライブで「音楽はあなたとの一対一のものだと思っている」という話をされる。それを初めて聞いてから、ずっとそう考えて音楽というものには向き合ってきたし、それは人とのコミュニケーションにおいても心がけている。
そんな立場で考えると、「革命」のために「立ち向かった」のは、メンバーやスタッフ、神者、友人、そして家族、つまりは「君」がいたからということなのだと、しみじみ感じる。そして、「立ち向かった」という過去形であるところから、何度も負けそうになりながらも乗り越えてきた歴史があり、それらはすべて与えられたものではなく、「勝ち取って」きたものであるからこそ、「もっともっと」を付けることが成り立つ。

「ピエロが手招き さっさと楽になれと 誰かと同じが大人なら 少女のままtake to the top」

書きながら気づいたのだけれど、「黎明ジャンヌダルク」には英語が多い。この曲にはなんとなく疾走感のようなものを感じていたけれど、これはもしかすると理由のひとつなのかもしれない。
「誰かと同じ」というのは楽である。私はそれそのものは否定されるものではないと思うけれど、それが半ば強制的にもたらされたものであるならば、やはりそれは避けたいものである。20代のころはいろいろとがっていたなぁと思うこともある。そのころは「大人」というものに対して嫌悪感を抱きやすい。それは、自分がそのなりたくない「大人」になるよう求められるシーンが増えるからだと思う。そういう悪い意味での「大人」にはならずに済んでいると思うからこそ、こうやって「take to the top」を目指す彼女たちはやっぱりかっこいいと思う。

「悔いのない人生みんな望んでるけど 死に際に まだ息をしてたいと願うほど綺麗な This World」

いつ死んでも後悔しない人生を、1日1日を過ごそうと決めたのはいつからだっただろう。本当に今までのことで後悔していることは何もなくて、それは幸せなことであると思うと同時に、そうやって思い込んでいる自分がいることも自覚している。それでも、そうやって思い込める自分は褒めたいと思う。
言葉も話せなくなり、自分でほとんど歩けなくなり、入院してから3ヶ月、「情けない姿を見せたくない」と1度も会わせてくれなかった母が残した言葉は「いい人生だったよ」「家族みんなでごはん食べたりドラマの話とかしてね、私どこかで聞いているからね笑」だけだった。悔いのない人生というのは、こういうことを言うのかと思った。もちろん、口にしないだけで、まだまだやりたいことはあったろう。けれども、「いい人生だった」と死の近くで言い切れることは、どれだけあるだろうか。
それは逆に、「綺麗な」ものであると捉えていたからこそ、言い切れる言葉ではないだろうかと思う。そのように考えると、それだけいもこの前に広がる「world」は「綺麗な」ものであるということを感じ、なんだか嬉しくなるのである。「綺麗」であることは、決して単純によいことだけではない。その「綺麗さ」が故に辛く感じたり、嫌に感じることもあるだろう。しかし、それだけでは決して終わらないからこそ「綺麗な」ものであり、「まだ息をしてたいと願う」理由になるのだろう。


「忘れないで忘れないで 世間が言う良し悪しはアンバランス はみ出せば敵と叩かれて オリジナルは指摘対象で」

「世間が言う良し悪しはアンバランス」とはうまい表現である。「良し悪し」というのは基本的に主観であって、結局は好みに過ぎないのだが、「好き嫌い」という言い方をしないことによって、客観的な判断を伴った「善悪」のように語られがちである。しかしそれは「正義」が多様であるのと同様に、語る者によって偏りが出る。そして「良し」と言われやすいものは、多くが大衆に支持されるものであり、「悪し」と言われるものは少数派になりがちだ。
もちろん、良い→多くに支持される、悪い→支持が少ない、となるのは当然なのだが、その逆が良くない。多くに支持されているものが良い、人気がないから良いかどうかを考えもしない。そういう「アンバランス」さを「世間」は抱えている。まさにその通りであると思う。特に、それを無自覚に行なっているとさらにたちが悪い。流行っているものが悪いとは言わないが、流行らせるための細工(工夫とは別の意味で)があることには気づかないといけないと思うのだ。


古いスタイルkeepより フリースタイルにいく 数多いる知ったかに食らわすKick スタートの頃から変わてないVibes 無加工の言霊そのままバイブル 感情証明のメロディ

「古いスタイル」と「フリースタイル」、「Vibes」と「バイブル」の韻の踏み方が好き。
さて、先ほどの「存在証明のメロディ」と対をなす部分である。先ほどは、ライブで完成される神激の音楽、という解釈をした。それと同等に並び立つものとして登場するのが「無加工の言霊」である。現代のSNS文化において「無加工」というのは、実はかなり強い言葉だと思っている。「無」がつく言葉というのは、つかないものが基本となっているときにあえてつける言葉だ。無添加、無自覚、無断、無欲などなど…それだけ加工というものは当然のように行われている。しかし、それははたしてよいことなのだろうか。特に、言葉においては、どうしても「上滑り」した歌詞や表現ばかり安易に受け入れられているように感じる。言葉は、太古の昔から呪術的な力をもつと考えられ、名前を知られることによって呪われるからと本名を明かさない風習があったほどだ。それが「言霊」という考え方のひとつである。
神激の歌詞は、ストレートである。ただ、表現がストレートであるというよりかは、思い・感情に対してストレートである。何かを観察して外から語るのではなく、内面を絞り出している。だからこそ、私たちの内面に響くのではなかろうか。それが神激の「感情証明」なのだと、そう思う。


「狂った様に怯えて泣いた 誰かのせいにして Never give up 這い出そうと手を伸ばそうとmesia not in tokyo 待ってたって 祈ってたって 何も変わんないぜ 自分自身で起こしたジハードを」

最近の私の中で気になるテーマ「誰かのせいして」である。近年、この傾向が世の中顕著であるような気がしている。もちろん、人に問わねばならない責任は多々あるし、自分だけの問題ではないことも多い。しかし、順序があると思うのである。まずは自分ができる全力を尽くし、それでも解決できない部分を外に求めるべきであって、外の問題がなければ自分(たち)はもっとちゃんとできるのに、という言い分は通らないと思うのだ。まず自分はそれだけのことができているのかい?と。結局あなたがしていることは、形が違うだけで、あなたが文句を言っていることと同じではないかい?と。
戻るが、「怯えて」という部分からは、「逃げ」のニュアンスを感じる。「怯え」があるということは、何かに攻撃性を感じているということであり、その何かに立ち向かうことはできない状態だと考えられる。その立ち向かえない「何か」こそが「誰か」なのだろう。
助けてほしいと願うが「mesia not in Tokyo」、「救世主は東京にはいない」。(ちなみに、このmesiaはMessiahを使うべきところだったのかとは思うが…考えきれず)
個人的に、「東京」が出てくるときはやっぱりメンバーの心情により近づけて考えていいのかなと思っている。上京してきた先、夢を潰しも叶えもする街、東京。東京という場所の特殊性は、ずっとここで生きてきた私にはなかなか感じられないが、自分が外に出ればやはり地域としての特殊性は感じるのだろうし、相対的に見れば東京というところは、やはり特別な存在なのだろう。
そんな地で起こす「ジハード」は「聖戦」と訳され、「正義を守るための戦い」を指す。「聖戦」そのものと「ジハード」は指すものが厳密には違うようだが、そこは考えなくていいかもしれない。
いちおう書いておくと、イスラム文化における「ジハード」とは、対外的な戦いだけではなく、内側の対立による崩壊を防ぐ意味合いも含んでおり、「聖戦」の直接的な英訳である「holy war」に比べると、内側、言うなれば自分自身の内面との戦いもイメージできるため、好きである。そこも踏まえての「ジハード」だったらすごいなぁ。
あとで気づいたけれど、この1つめのジハードは「起こした」であり、過去を語るパートとして成立している。そして、これまでを揺るがす大きな出来事を経て、未来に進んでいく姿が描かれていく。


「母から授かった氏名を 我がで使命にかせて死命へ」

こちらは以前の記事から引用。これだけで一本書いたから長い…笑

「母から授かった氏名を」まではいいのだが、他はどう解釈するべきか。「我がで」という言葉そのものはなさそうであったが、調べてみると徳島の方言に「我がでに」という言葉があり、「自分で」という意味で使われているようだ。
「かせて」は、細かい説明は省くが、文法的には「かす」ではなく、「かせる」という言葉になるはずである。標準語的には、傷が乾く、かぶれるという意味の言葉が出てくるのだが、いまいちピンと来ない。そこでもう少し調べてみると、新潟や下関の方言に「食わせる」という意味で使われている「かせる」があることがわかった。
ここで一度整理すると、「我がで使命にかせて」とは、「自分で使命に食わせて」と解釈するのが良さそうだ。つなげると、「母からもらった氏名を自分で使命に食わせて」となる。ここで気になるのは、では「使命」とは何か、ということである。もちろん、次の「死命」と合わせて「シメイ」の韻を踏むためではあるのだけれど、それ以上の何かがあってもよいのではないかと考えたい。
あくまで私の解釈でしかないが、この「使命」とは「生牡蠣いもこ」であり「神使轟く、激情の如く。」そのものを指すのではないかと思うのだ。授けられた、個としての氏名。それを置いて神激として生きることの使命。氏名=自分の存在を、使命=神激メンバーとしての姿に、食わせる=託して生きる、そういう風に考えてみたい。
最後に「死命」を考える。「死ぬべき命」の意味ではズレると思うので、「死ぬか生きるか」のほうを採用すべきだろう。
すべてを総合すると、「母から授かった氏名を 我がで使命にかせて死命へ」は以下のように解釈できると考えられる。
母から授かった、フィクションではない個人という存在を、神激のメンバーという自分とは別の存在に託して、死ぬか生きるかの覚悟をもってやっていく、そういう意味なのではなかろうか。
最初この部分の歌詞を見たとき、誤字を疑った。しかし、ひとつひとつ選び抜かれた言葉で書かれたものであるということが見えてきた。すべてを調べ、言葉を探しながら表現していったとするならば、ものすごい才能ではなかろうか。私の考えすぎではないはずである。


「約束の丘まで号令 響かせて 引き連れた様は まるでハーメルンの笛のよう 止められないもう 威風堂々 道を ド真ん中切り裂いて 」

あまちがカッコよすぎるパート。
「約束の丘」とは様々な歌詞等の表現で使われるもので、元はユダヤ教やキリスト教で言うところの「約束の地」からくるものであろうと思う。神が与えることを約束した土地のことであり、そのことから、思い入れのある土地であったり、目指すべき場所であったりと、そうした意味で使われるものである。
神話の中で実在する土地が語られる場合、実質的な統治や精神的な拠り所としての正統性(正当性)の主張として解釈をされることが多いが、ユダヤ教の一部の宗派においては、信者に与えられる約束の地の場所を明らかにするメシアがやがて到来すると信じているそうだ。
先ほど登場した通り、「メシア」は「not in Tokyo」である。しかし、いつかたどり着き、勝ち取るであろう「約束の丘」には、「メシア」として神激がいるのであろう。
続いて、「ハーメルンの笛」だ。ドイツの「ハーメルンの笛吹き男」の伝承で知られる。
ネズミ退治の仕事を任されたハーメルンは、笛によってネズミを引き連れ、川に沈めて退治する。しかし、その報酬をもらう約束を反故にされ、後には町の子どもたちを笛によって引き連れ、洞窟にこもってしまい、出てくることはなかった、というのが原典のストーリーである。
「引き連れた様」を表現するための比喩として使われているのだろうから、ストーリー的なメッセージ性はないだろう。ただ、その引き連れていくイメージと「笛」から連想される音楽的要素を考えると、これ以上ない固有名詞をもってきたなあと思う。
歌詞の中の固有名詞は、個人的にとても関心をもっている。最近の印象に残る曲の多くには、固有名詞が使われがちである。よいと思うものと、そうでないと思うものがあるが、やはり具体的イメージをわかせる手段としては非常に効果的で、好きである。
そして「ハーメルンの笛」に導かれた神者たちは、メンバーと共に「ド真ん中切り裂いて」進んでいくのである。


「しょうがない後悔はない そう言い聞かす夜の 会いたい会えない愛を」

いもこの大好きなパート。リフトを上げてもらうときが来たらここがいい。変なタイミングかもしれないけれど…
「しょうがない」「後悔はない」と思うときの、はたしてどれだけのことが「言い聞かす」ものだったろう。それについても考えたくなるが、それよりも、「会いたい会えない愛」につながっていることのほうが印象的だ。
「会いたい」ということは「会えない」ということでもある。「会えない」ことによって「会いたい」と思うこともある。どちらにせよ、会いたい「のに」会えないと補うのが自然だろう。その会いたい気持ちは「愛」であり、「後悔はない」と「言い聞かす」会えない後悔なのだと思う。
「愛」をもつ相手に会えないことは、その形を問わず、会えるときの、会えたときの思いを呼び起こし、かけたかった言葉やもう一度感じたい瞬間があるはずである。その願望が死や関係の終わりによって叶わないのであれば、それは「しょうがない」のだが、そうなる前に、こんな気持ちにならないようにする方法はなかったのだろうか。それが、この「後悔」の正体なのではなかろうか。


「抗った運命にケリつけて手向けた花を 勝つ為 もっともっと」

「手向け」は基本的には霊に使う。少なくとも、別れの行為である。私はギリギリまだ神者ではなかったのだが、幕張のMCを聞きながら、いもこの決意のほどを知った。
親孝行をしたいときに親はいない、みたいなセリフをよく聞くが、私はあまりそうは思わない。それはそれこそ親のおかげかもしれないが、いつでも自分を応援してくれたし、弟と2人でいつも1番に考えてくれたと思う。だからこそ、自分が自分らしく楽しく生きていくことが何より親孝行になるし、いまの自分を作ってくれたことに恩返しをするために精一杯生きたいと思える。
だから「勝つ為」に進む決意をしたいもこを誇らしく思える、その姿を思い浮かべずにはいられない部分である。


「Dreaming girl still be here じゃまだ終われない 革命が 闇に光彩を 何度も立ち上がったのは 君がいたから 進むよ ずっとずっと」

「闇にひかりを」を「光」ではなく「光彩」をあてたのはとてもステキな発想だと思う。
「光彩」とは「美しく輝く鮮やかな光」であることから転じて、「繁栄すること」の意味もある。「彩り」から感じるイメージだが、単色の光というよりカラフルな光を思い浮かべることができる。今回の「光彩」は革命が闇に与える光であり、闇を照らす以上の繁栄の光なのである。それは、グループとして、個人として「君」と乗り越えてきた、一緒でなければできない、辛いことも楽しいことも抱えながら進んできた、そして進んでゆく道を指し示す光なのである。


「傷だらけプロローグ ほら胸の奥にキズ 白紙のページ 血が滲んでも 待ってたって 祈ってたって 何も変わらないなら 自分自身で起こせよ ジハード」

戦わなければ傷つかない。傷つくのは戦うからである。そういう発想でいたとしても、不思議といつの間にかどこかに傷はついている。逃げても、待っても何かしら傷はつく。大切なのは自分が許せる傷は何なのかということである。
「背中の傷は剣士の恥だ」という言葉があるが、その一種だ。向かっていった傷はもしかすると向かわなければつかなかったかもしれないが、その傷は自分が立ち向かったことの証明である。傷は痛いが、自分の行動の証明になる。だからこそ、負った傷はどうやって負ったのかが大切だと言える。たとえ「血が滲んでも」「自分自身で」「ジハード」を「起こせよ」と奮い立たせてくれる。
そしてこれが2つめの「ジハード」だ。呼びかけているのは、相手でありそして自分自身である。「待ってたって」「祈ってたって」「何も変わらない」だから立つんだ、と。
MVの中で、しゃがみ込んだいもこの横にことのさんが立ち、いもこがひとりで立ち上がるシーンがある。「抗った運命に手向けた花を…」のところである。大好きなシーンだが、そういえばそのシーンどこかなと確認していたところ、この2つめのジハードの引用部分でそれぞれが歩み出し、最後にはいもこが階段を降りるという姿が描かれている。
この曲はレクイエムでもあり、応援歌でもあると同時に、やはり決意の歌であると確信した。


「掲げた旗を揺らしているのは 向かい風か 追い風か 未だわからないが ただ大事なのは 突き通す覚悟 自分らしさ見失わず 突き通す覚悟」

そうして立ち上がったのち、風が「掲げた旗」を「揺らしている」。その風の正体は「未だ」「わからない」。そうした中で大事にするのは、「突き通す覚悟」であると言う。「覚悟」はどれだけの決意をすれば「覚悟」になるのだろう。揺るがない決意を続けるのは、始めたら終わり、ではない強さがいる。しかし、その途中で耐える強さよりも、本当の「覚悟」は始めたときの決意の強さで続けていけるのかが決まるのだと思う。これまでのストーリーはその強さを物語っている。


「人生のほとんどが 向かい風だったから これっぽっちの追い風で 誰よりも加速する ちっぽけな存在が起こすでかい革命 まだまだ眠れそうにないな 勝つまで」

人生にはさまざまな姿があり、すべての人が違った環境をもち、考えをもつ。「向かい風」が「人生のほとんど」と言い切るような人生には縁がなかったが、人生がどこで始まりどこで終わるのかは、捉え方であると思う。生命の始終は必ずしも人生にはならないと私は思う。自分が決める始まりこそが人生であり、どこをなかったことにしても私はいいと思うのだ。
自分のために生きるか、他人のために生きるか。他人のためにしか生きられない私には、その「他人」は結局与えてもらえないようだけれども、それでも探し続けていまここにいる。
「でかい革命」とは何であるのか、目標はどこにあるのか、それはわからないけれども、あなたの「向かい風」の人生のおかげで、私は「追い風」の一部になれた。自分の人生には常に風が吹いているけれども、その風が何であるのかはわからない。そして興味がない。
しかしながら、神激が吹かせる風、いもこが吹かせる風が私は好きである。「勝つ」姿を見てみたい。この先はそう長くはないかもしれない。それでも「ちっぽけ」でないことを伝えたい。こんなにも好きになれたグループは、始めてである。それは間違いなく私だけではない。愛されるグループであること、愛される推しであることを誇りに思う。「まだまだ眠れそうにない」決意をしてくれたことに感謝を。
「ジャンヌダルク」として語られるその日を、私は願い続けている。


終わりに

さて、ついに長きに渡るこの記事も終わりを迎える。1週間、黎明ジャンヌダルクに向き合い続けてきた。行き帰りの通勤2時間はこの曲だけを聴き続けた。毎日毎日新しい発見があり、いもこの歌詞の奥深さをいつも以上に感じた。神激の歌詞がいもこではないことが、周りにどう受け入れられ、自分がどう受け入れるのか、2月まではわからない。しかしながら、ひとつ間違いないのが、この「黎明ジャンヌダルク」という曲が語るメッセージを、このメッセージを語るいもこと神激の姿は、心に刻まれ、そして永遠に大切な曲として残り続けることだ。
すべてを一度出し切った生牡蠣いもこの決断を私は応援するし、それを素直に語ってくれた姿に尊敬もする。ただ、それは同時に極めて寂しく感じることでもある。そこを割り切れるほど私はいもこの言葉の力を軽く見ていない。しかし、いもこの言葉はなくなったわけではない。私はこれまで紡がれてきた多くの歌詞と、発する言葉、会話の中での姿勢をこれからもずっと好きでいる。それが私にとっての決断に対する「応援」の姿勢です。
歌詞レポ、どうしようか少し考えたけれど、上げさせてもらうことにした。仕方ないです。だって好きなんだもの。それ以上でもそれ以下でもないよ。

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