嫌いなものが多いほど世界を信じたい自分のことを信頼している
最近たぶん嫌いなものが増えた。
自分でふとSNSを見返して、よく嫌いなものや嫌なことの話をしているなと思う。
そればっかりでは不健全なはずだけど、私はむしろ今、こういうことを言う自分を少し、昔より良い自分に近づいたと思う。
私はものごとを嫌うのが下手だった。
嫌いだ、と思った瞬間に、「でもその人にもその言動をするなりの何か理由があるかもしれない、それによって救われる人、それが好きな人がいるかもしれない」と思考が割り込んでくる。
その罪悪感に苛まれて黙るが、いつか結局我慢しきれなくなり、最初よりも刺々しい言葉で誰かを突き刺して、悲しい思いをしてまたしばらく引っ込める。
綺麗事ではなく、本当に「下手」だった。
大人になったなと思う。ただものごとを嫌いであり、それによって人を責めないことのほうがずっと健全だ。
自分の中に抱え込むなら、人を責めない、ということだけで、嫌いであることは許してあげてもいいのかもしれない。
嫌なことは嫌であり、「それ以上」にしないというのはじつはかなり大切であると思う。
嫌なことを拠り所にすると、楽に感じることがある。嫌なものを設定してしまうと、周りのありとあらゆる状況から守られる。自分が悪いわけではなくなるから。
それもそれで正しい救いの姿だ。
だけど、私は時々、「わざと嫌なことをもっと嫌に」している人がいるような気がする。
私はそうであれば、それは一時の救いを長期的な苦しみと引き換えにしているだけだと思う。
「やだな、と思うことは、『もっとよくできる』のヒント」
去年行った展示のテーマであり、私が以前にしていた仕事の理念的な部分でもあった。
私は今、世界に対してもそんな気がしている。
世界の嫌だなと思うことは、同時に世界にこうであってほしいと願っていることだ。
「周りに恵まれている」と言われるのが好きで、そんな自分のことも好きなのだ。だから、相談事ではすごく肩入れして一緒に怒ってもらうより、「あなたのこういう困りごとと、相手のこういう立場が偶然対立しちゃったんだね、こうなれば理想なのにね」と言われたい。
「こうでありたいこと」があるから「これは嫌」が生まれる。その「こうでありたい」が我儘でないか、多分自省的に見つめるべきはそっちなんだと思う。
嫌いなことが多いけど、それだけ世界のことが好きです。
嫌いなことにもちゃんとアンテナを立てて、正しく向き合うことが、よりよい生をつくると信じている。
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