笑えない文学
今日も拡散希望
自分で書いた文章において、特に気を入れて書いている時と気を抜いて書いている時がある訳ではない。
それなのにある程度反響に差がある。
反響とは何であるのだろうか。
自分は常に拡散される事を希望して書いているのだけど。
或いは、宝くじみたいなものなのだろうか。
宝くじなんて自分はバカバカしくて買わないけど、逆に文章なんてバカバカしくて書かないという人もいるのだろう。
そう言えば、こないだこれからnoteに文章を書いてみる事を勧められたのだが、その人は自分が、ぶんがく、という名前で書いている事を知っていて、それにもかかわらずこうして文章を書いている事を知らなかった様だった。
その人は、自分が文章を書きたいと思っているのならばとそれを勧めた様だったのだが、自分は一瞬相手が何を言っているのか理解できなかった。
或いは、こうしてnote等に文章を書いている事は他人から見ればどうでもいいという事なのだろうけど。
文学一筋
文学という言葉は、本来重いものである気がする。
自分は、文学、ではなく、ぶんがく、という名前で書いているが、これは初めは、文学、だったのだがそれを、ぶんがく、に変えたのだ。
単純に、文学、だと重いし、それを軽くしてみただけなのだが。
そういうところで、何となく軽く見られているという事はあるのかもしれない。
実際にはもう四半世紀、文学一筋でやっていて、寧ろ他の事は何も知らないのだけど。
ある意味言葉が軽過ぎて、そういう重みのようなものを読んでいる人は感じていないのだろうか。
確かに水面下で活動している期間が長過ぎたし、普段からふざけた文章を書いているとか、そういう事をしている自分に問題があるとは言えるのだろう。
それでも、他人がそう思わないのだとしても自分には相変わらず文学は人生であるのだ。
普段の行いに問題が
結局、これから文章を書く事を勧められるというのも、笑い話と言えば笑い話だ。
そうして何事もスルーして行くというのも、自分の人生ではあるのかもしれない。
その言葉の軽さに問題があるのだろうか。
或いは、普段の行いに問題があるのだろうか。
ある意味では、もう書くな、と言われるより、これから書いてみたら、と言われる方が問題は大きい気がする。
自分がこの文章で伝えたかった事は色々あったのだけど、ある意味それももうどうでもいい気がしてきた。
あれから、四半世紀だな。
全てが統合失調症の妄想だった気がし始めた。
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