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Spotify「U.K. vs Asia 20」


Introduction

タイトルからもお分かりのように、このプレイリストを貫いているのは John Wetton のヴォーカルです。そして、70年代後半から80年代初頭にかけ、いよいよプログレが終焉を迎えた時期に (結果論ではあれ) きわめてシンボリックな役割を担ったのが、UK と Asia の両バンドです。

両バンドのメンバーおよび人物相関には、それこそ綺羅星のごとくビッグネームが登場します。しかし、プログレ 5大バンドを中心にロックを聴き始めたぼくとしては、やはり Yes や Crimson ファミリーの流れから Bill Bruford と John Wetton をメインに見ていきます。あくまでも、一リスナーの肌感覚による経験を軸にして。その前提として、当時のぼくの愛聴 LP から伺える時代の変遷状況を確認しておきましょう。

1974  King Crimson「Red」
1976  Kansas「Leftoverture」★
     Boston「Boston」★
1977  Fleetwood Mac「Rumours」☆
     Steely Dan「Aja」△
     Weather Report「Heavy Weather」△
     Foreigner「Foreigner」◇
1978  UK「UK」
     Toto「Toto」◇
1979  Supertramp「Breakfast In America」☆
     The Police「Reggatta De Blanc」※
     The Knack「Get The Knack」※
1980  Visage「Visage」※
     The Buggles 「The Age Of Plastic」※
     Talking Heads「Remain In Light」※
1981  Duran Duran「Duran Duran」※
     Journey「Escape」★◇
     Styx「Paradise Theater」★◇
1982  Asia「Asia」
   
   Michael Jackson「Thriller」☆☆

★ アメリカン・プログレ・ハード
☆ アメリカ市場の開拓・拡大
△ ジャズ・フュージョンの台頭
◇ 産業ロック/アリーナロック
※  ニューウェーブ

原題表記のみ

U.K.

1978年、UK はセルフタイトルの 1stアルバムで華々しいデビューを飾りました。四人メンバー全員が、それぞれプログレ界で名だたる実績/実力を積んでいた、まさにスーパーバンドでした。しかし、この四人が顔を揃えたのはデビュー作のみで、Bill と Alan はすぐに脱退、公式アルバムはライヴ盤を含めてわずか三枚という短命に終わります。そこから John Wetton を支柱に発展的リニューアルを遂げたのが Asia です。

それだけに、デビュー作の話題性・注目度はズバ抜けていたのを記憶しています。詳細については、↓ よっしーさんの記事を是非ご覧ください。バンドの特色やメンバーの個性はもちろん、個々の楽曲紹介まで的確に捉えられています。過不足なく書かれているので、もうぼくの出番はないかも、と執筆意欲を削がれたほど、なのでぼく的には、あの頃リアルタイムに感じた率直な印象を付記します。

テクニシャン揃いの UK サウンド。まず思ったのは、バランス的にうまくまとまった、ということです。そもそも論ですが、個性派アーティストが複数でコラボをする場合、そのサウンド構築法は二種類に大別できます。ひとつが、強力なイニシアティブを握るリーダーに従って他のメンバーは黒子に徹するパターン (VDGGかな)。もうひとつが、各人に担当パートを完全に任せたうえで総合的にバランスをとるパターン (Yesかな)。もちろん UK は後者ですが、なおかつ、各人の実力が 100として全員が 85~90 ぐらいで喧嘩をしないところが、実力派の余裕すら感じさせます。

次に思ったのが、キーボードの音の進化。70年代初頭のメロトロンのようなベタベタ感が薄れ、軽やかで煌びやかに聴こえたのは、単に Eddie Jobson に魅了されたからでしょうか。たしかにぼくが Eddie を知ったのは UK においてであり、Curved Air 在籍時の印象はまったくありませんでした。弱冠 22歳でキーボード + ヴァイオリンまで弾きこなす容姿は、貴公子という冠がピッタリでした。それはそれとして、シンセを中心とした電子キーボードの音質が、このときずいぶん洗練された感じがあったのですね。時代をぐっと前に進めたような。

一聴すると、コード伴奏にしろソロ演奏にしろ、UK はキーボードが表立っています。しかし、ヴォーカルもリズム隊もしっかりと自己主張する背景には、先述したとおり各人が 100 のうちの 85〜90 の力で示した謙虚さがある、とぼくは思います。理想的願望を言うなら、コラボの至高形態は各人が 100 のところを 120 の力を出し切って思いもよらないケミストリーを産みだすことです。そういう意味では、まさにインプロヴィゼーションの偶発性がプラスされなければならず、ジャズ寄りの Bill と Alan が 1st リリース後にすぐ脱退したのは「むべなるかな」かもしれません。

デビューアルバムが「奇跡の一枚」と言われるのは、サウンド面だけの話ではありません。よくもまあ、これだけのメンツが途中で投げ出さず、公式録音を最後まで仕上げてアルバム発表に漕ぎつけたものだ、という意味合いでぼくは捉えています。

プレイリストに収めたのは、3rd のライブ盤「Night After Night」。スタジオ録音よりもテンポがよく、音もクリアー、実質的なベスト盤でもあります。John Wetton、Eddie Jobson、Terry Bozzio のトリオ編成は、UK 結成前夜の1976年に仕掛人 Brian Lane (後述) が最初に企図した形 (=ELP形態) ですから、皮肉といえば皮肉ですね。日本公演の音源という点も、もちろん推しの理由ですが。

Asia 

UK だけに焦点を絞るなら、これで記事は完了します。ところが、当時の音楽シーン全体から俯瞰すると、そしてティーンエイジャーだったぼく自身の実体験に従うと、そうは問屋が卸しません。本稿冒頭のアルバム年表に戻ってください。表中にプログレ関連作品は省いてありますが、当時ぼくが好んで聴いた LP の目ぼしいところは (時代を画した流行アルバムは)、およそ網羅しています。

とくに、☆、△、※、などの記号に注目していただければ、時代の流れが把握しやすいと思います。ズバリ、1974年「Red」発表後の後期クリムゾン解散は、プログレのピークアウト/衰退の始まりを示しています。それからアメリカン・プログレ・ハードが起こり、ジャズ界からはクロスオーバーやフュージョンが台頭しました (ロック界にも影響を与えました)。またマーケット的にアメリカ市場の存在感が高まると、イギリスのそれなりのバンドがアメリカで一攫千金を当てる先例ができました。すると「あとに続け」と猫も杓子も全米進出を目論み、一方イギリス本国ではポストパンク/ニューウェーブ旋風の到来。それらが新時代のうねりのように絡まりあい、来たる消費社会の足音がすぐそこまで近づいていたのです。

このような時代背景のなか、いくらネームバリューがあるといっても、過去のレガシーに進んで向き合うことはありえません。はっきり言って、ぼくは困惑したのです。いや、もはや直観/嗅覚で、十代のフィーリングは素直に新しさを希求していました。UKってプログレ界では久々のホンモノだな、とは分かりつつも、The Police のギターリフに魂はグルーヴしました。時間/歴史は不可逆なのです。巻き戻せません。

そのうえ、プログレの「形式」は時代から取り残されるのに、「音質」はどんどん没個性化しました。先述した UK のキーボード音が好例ですが、シンセの普及と電子音の拡散は音楽業界全般に行き渡り、もはやプログレの特徴/長所ではなくなりました。そんなときに「3分30秒のコンパクトなプログレ」を提唱しても、結果は火を見るよりも明らか。それが Asia ズッコケの本質的背景ではないでしょうか。

1982年、Asia は未曽有の前評判でデビューします。 UK 以上にスケールアップした夢のプログレ・スーパーバンド。King Crimson、ELP、Yes、に在籍歴のある凄腕メンバーの集結ですから、そりゃ全米 1位を獲得したのも不思議ではありません (ネームバリューだけで集客できます)。しかし、結果的にはこのデビュー時がピークで (超ビッグな一発屋)、翌 83年の 2nd「Alpha」は 1st アルバムの 1/5 以下のセールスに終わります。実際、ぼく自身も 2枚の CDを聴いて、もういいや、と見切りをつけたのが正直なところでした。どの曲もみんな同じに聞こえました。たしかに耳触りのいい曲だよな、でも、この「今日」とのギャップ感は何だろう。そう独りごちながら、ぼくは正調プログレの終焉をはっきりと自覚したのです。 

正調プログレの終焉、プログレ・オールドスクールの鬼籍入り、結局それを決定づけたのが/広く世に知らしめたのが、UK ~ Asia の役割だったように思います。そして、この間ヴォーカル&フロントマンとして矢面に立ち続けたのが、John Wetton ――。

Conclusion

ぼくの John Wetton に対するイメージは、やはりクリムゾン時代に醸成されたものです。声だけに限るなら、歴代ヴォーカルのなかでも 1・2 を争う安定感の持主でしょう、伸びやかで声量たっぷりの声色、リリカルな哀愁をも感じさせる訴求力。ソングライティングのポップセンスには目を見張るものがあり、Asia では作曲も担当します。しかし、それ以上に注目すべきは、フロントマンとしての姿勢です。あのクリムゾンで主宰 Robert Fripp の音楽理論と管理のもと、フロントマンを務めるのがいかに大変か。細い神経ではとても無理だろう、という憶測の裏返しで/褒め言葉で、ある種の鈍感力が必須だ、とぼくは思います。知性よりは熱いハート。脳天気に、愚直に、継続できる資質

独断と偏見で言うなら、Wetton のその資質こそが UK ~ Asia の活動を根底で支えたのかもしれません。あれだけのビッグネームが出入りしたバンドです。さらに、分かる人には分かるでしょうが (誤解を恐れずに言うと)、両バンドとも結局は出身母体の「じゃないほう」でした。そんなことを微塵も気にかけない図太さが彼にはありました。もとより、商業的失敗はアーティストの所為ではありません。それではあまりに酷、ってものです。

1976年、UK ~ Asia のそもそもの発端はこの年にあります。クリムゾン解散後ブラブラしていた Bill Bruford & John Wetton のもとに、Rick Wakeman を加えたトリオ編成のスーパーバンド構想が持ちかけられます。仕掛人はあの Brian Lane。イエスの辣腕マネージャーです

このときの青写真が、ELP の向こうを張ったトリオ編成。たぶん、この時点ですでに Brian の感性は錆びていたのでしょう。センスがないというか、トレンドを読めないというか。あるいは、知名度ばかりに拘る企画屋、と言うべきかもしれません (80年 Yes と The Buggles を合体させた張本人も彼なので一応トレンドには敏感でした)。76年といえばまだプログレの衰退初期ですが、この数年のギャップが実は決定的で、のちの失敗 (=UK ~ Asia の顛末) の原因になった、とぼくは捉えています。そう思うことで、少しでも被害者のアーティストたちを供養しています。

Brian には申し訳ないけれど、最初のボタンの掛け違いはやがて大きな災禍になるもの。それに、1976年のスーパートリオ企図が ELP 形態 (キーボード主導) だったところが、やはり彼の限界だったのでしょう。同じ 3ピースでも The Police のように、あるいは再結成期クリムゾンのように、リズム主導の変革に新時代は舵を切るのですから……。そういえば ABWH 誕生の陰で動いたのも、Brian Lane でしたっけ……。

現在でも UK & Asia はたまに聴きます。頭が空っぽのときは「劇的なパワーポップ」が心地良く流れます。ただ、John Wetton の声に不意に意識が躓くと、あのヴォーカルが妙に切なく感じられるのです。声に歴史あり、ということでしょうか。

それでは、また。
See you soon on note (on Spotify).


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