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はじめてのレッスン 

R50+  4700文字  1970年代風物
身内ネタ(実体験)  沖縄返還の前後
※興味のないかたはスルーしてください※    

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ぼくの音楽における趣味嗜好はどこから来たのか、あるいはいつから形成されたのか、そんなことを考えながら作ったのが「Jun's Roots Melody 20」です。思春期に目覚めた洋楽よりもずっと以前の、ずっと未分化な、原体験らしきものを深く掘ってみたかったのです。

それはそうと、文字どおりの西洋人から洋楽を教わったという意味では、ものすごく貴重な体験があります。1973年 (小6)、同級生の T 中くんの家にアメリカ人ゲストが来て、そのゲストの若者から直々に「明日に架ける橋」をレッスンされる、という。

ペントハウスの豪邸

T 中くんは小 5 のときに沖縄から引っ越してきた転校生でした。とはいえ沖縄の人ではなく、もともと小 3 までは地元大阪にいて、親の仕事の関係で一時的に沖縄へ移住、二年ほど経ってふたたび大阪へ戻ってきた、ちょっとややこしい経緯がありました。親の仕事というのは、いわゆる転勤族ではなく実業家です。1972年の沖縄返還を巡り、おそらくは利権がらみの商機でもあったのかな、と大人になってからのぼくは推察しています (真偽のほどは分かりません)。下の名前から、ツーちゃんとぼくらは呼んでいました。ツーちゃんの住まいが、それはそれはスゲー豪邸でした。

ツーちゃんの転入とほぼ同時期に、JR 駅前にスーパーマーケット・サカエができました。当時、駅前に大型スーパーができるのは街の商圏が一変するほどの出来事でした。そのサカエの入居する駅前テナント・ビルが、ツーちゃんの親の所有だったのです。大人も含め、実業家のビジネスモデルなんてまだ一般には知られていない時代です。周囲の誰彼となく「ツーちゃんとこがサカエやってる」とか「サカエの社長なんやろ」とか、無責任な噂を言いふらしました。それほど地元では大きなトピックスで、事実その商業ビルの最上階がツーちゃんの家、いまで言うペントハウスでした。

屋上スペースをふんだんに使った豪邸は、小学生の常識を打ちのめすには充分でした。最上階までは直通エレベーターで昇り、降りるとだだっ広いエントランス・ホールがありました。そこから玄関まで 20メートルほど歩き、玄関の向こうは優に 80畳はあるリビングでした。振動ベルトをブルブルさせ、ルームランナーのような痩身器具に体を預けているお母さんが、印象的でした。そのお母さんは会釈をするだけで、むしろ手厚く迎えてくれたのはお手伝いさんです。案内されたツーちゃんの自室には、ジージャンとベルボトムの上下が壁にかかっています。エキスパンダーといっしょに、チャールズ・ブロンソンのポスターが貼られていたっけ。床には散在する「ロードショー」や LP レコードの山。

アニメで例えると、ちびまる子ちゃんが花輪くんの邸宅に招かれたときのイメージが、きっとそっくり当てはまるでしょう。当時はフツーの公立小学校で、いわゆる一般ピープルも、大金持ちも、みんないっしょに日常生活を営んでいたのです (社会的分断は今日ほど深刻ではなかったのでしょう)

本物のガイジンさん

ツーちゃんは多兄弟の末っ子で、すぐ上のお姉さんとは 2歳、いちばん上のお兄さんとは 10歳以上、離れていたはずです。だから、ツーちゃんの情報はとびっきりマセていて、しかも、沖縄経由の本場アメリカ発信。乗っていた自転車は、金ラメのチョッパー・ハンドルでした。ぼくらが目を丸くして「乗せてよ」とねだれば、イージー・ライダーのバイクがどうのこうの、とツーちゃんはお姉さんの受け売りを披露してくれました。

また、給食時間には生徒のリクエストによる校内放送があったのですが、ツーちゃんは映画「荒野の用心棒/さすらいの口笛」をリクエストして、世間から周回遅れのマカロニ・ウェスタンを小学校に広めました。映画関係には特に詳しく、テレビの洋画劇場で「大脱走」や「荒野の七人」など二週にわたる前後編の娯楽大作があると、ツーちゃんは前編終了時によくクラスメートと賭けをしていました。どの登場人物が死ぬか、何人が生き残るか。もちろんツーちゃんは全問正解です、兄姉から事前に情報を仕入れていたのですから。しかし、ツーちゃんのそれらの言動が、鼻についたことは一度だってありません。まったく邪気がなかったというか、純粋に育ちがよかったというか。

そういえば一度、我家の夕食時に父親が「T 中くんとは遊ぶな」と言ったことがあります。「あの子は不良や」と。いま想うと、ツーちゃんの身なりを含めた/アメリカナイズされた生活様式に (親は) 反応したのでしょうが、ぼくは向きになって反論しましたね。もう顔を真っ赤にして。厳格な父親に歯向かったのは、あれが最初だと思います。おろおろと間に入った母親がとりなしてくれましたが。

1973年頃といえば、ぼくらがテレビ以外で見かける外国人は限られていました。少なくともぼくの街では、せいぜいモルモン教の布教活動者だけでした。彼らはビートルズのようなアイビースーツを着こなし、二・三人で自転車に乗って活動していました。小学生を取り囲み「あなたは神を信じますか?」と勧誘が始まるのですが、言われた当の小学生はもう勲章でも授かったようなもの、翌日には早速学校でその体験談を自慢しました。数回ぼくも呼び止められたことが……。間近に見るガイジンさんは珍しく、ぼくは口を開けたまま高い鼻に見とれるばかり……。

明日に架ける橋

それが、当時のぼくらの平均的な異文化交流です。そこへ本物のガイジンさんがやって来たから、さあ大変。本物の、というのもおかしな話ですが、要はそれがツーちゃんの家に招かれたお客さんでした。20〜25歳ぐらいの若い白人男性で、しかしぼくらが仰天したのはその風貌でした。ぼさぼさのロン毛、もじゃもじゃの髭面、汚いジーンズにブーツ、どう見てもモルモン教の若者とは違い過ぎです。たぶんヒッピーと呼ばれるファッションだったのでしょう。その頃の小学生にとって、ヒッピーという単語はイコール乞食でした。そのヒッピーがぼくら数人に「アメリカの歌を教えてやろう」と言いだしました。有無を言わさず、ぼくらはエレベーター前のホールに集められたのです。そうして始まったネイティブによる復唱レッスン。

「フェンニャー・ウィーリー・フィーリン・スモー」。ヒッピーが歌うフレーズを、耳を頼りにぼくらは真似ます。「エ―ンティーズ・アー・イン・ヨーアーイ」。おかしな箇所は何度でもやり直しです。はじめのうちはぼくらもおちゃらけムードでしたが、だんだんヒッピーがマジになってきました。言葉は通じなくても、なんとなく空気で読めました。さらにふざけようものなら、5分前は笑って許してくれたのが、今度は露骨に睨まれます。次第に彼の青い目には怒りが宿りはじめ、ややもすればその瞳は濡れているようにも見えます

「ライカ―・ブリッー・ジオーバー・トラボー・ワーター」。そしてサビになると彼は声を張りあげます。「アーウィー・レーイ・ミーダーン」。ざっと小一時間は続いたでしょうか。ツーちゃんは小声で「兄ちゃんの友達やねん、ごめんな」と謝りました (ヒッピーとツーちゃんとは片言で会話が成立していました)。最後は、総仕上げにぼくら子供だけで合唱をさせられました。ヒッピーはしきりに頷きながら、たぶん「この歌を忘れるな」とか「友達は大切に」とか。別れ際までヒッピーはどこかイライラしていて、それが誰に向けられたものなのかは謎だったのです

事実としてのおもいではそれだけです、それだけのことなのです。ところがこの体験は、のちにぼくが成長するにつれてさまざまな深読みを誘発します。もちろん後日談として、ぼくらがクラス会では決まって「明日に架ける橋」英語ヴァ―ジョンを歌うようになったのはお察しのとおりです。しかし、この曲が Simon & Garfunkel の1970年作であることを、なにより歌詞の意味を、ぼくが知るのはずっと後年です。

後日の記憶整理

長じて一般教養が身に付き、「明日に架ける橋」の対訳を知ると、ぼくの頭のなかではあの 1973年の体験がコンテキストを伴って立体的に再構成されます。ただの回想ではなく、ものすごいストーリーが背後にあったのかも、という憶測とも妄想とも言えない思い。

あのときヒッピーはなぜあれほど怒ったのか、なぜ情緒不安定に涙を浮かべたのか。1970年「明日に架ける橋」リリース、1972年沖縄返還、1973年アメリカ軍のベトナム撤退、1975年ベトナム戦争終結。ヒッピーの風貌から考えて、彼が軍人だったとは思えません。しかし沖縄で基地関係の仕事に従事していた可能性は充分にあり、そうだとすると1972年〜73年には泥沼化したベトナム戦場へ送られた大勢のアメリカの若者のなかに、あのヒッピーの友達がいたとしても全然おかしくはありません。そういう状況下での「Like a bridge over troubled water」です。「I will lay me down……」

あの洋楽レッスンのおかげで、ぼくは Simon & Garfunkel を意識的に聴くようになります。ただメロディの良し悪しに囚われず、政治背景なり主義主張なりが歌詞にも隠れている、曲のメッセージ性をちゃんと聴き取らなければならない、といったように (フォークソング的な解釈)。もちろんそれ以前に、S & G がぼくの美メロ感覚の醸成にかなり貢献したのは、言うまでもありません。S & G、Carpenters、The Beatles、Michel Polnareff、これらの美メロの土台があればこそ、というより、この土台からプログレとの出会いまではもう半歩の距離もなかったはず。そういう意味で、やはりツーちゃんはぼくの人生に欠かせない登場人物だったのでしょう。ぼくの音楽人生を振り返るとき、1丁目1番地で立っているのは必ずツーちゃんなのです

小学校卒業と同時にツーちゃんとは離れ離れになります。中学校の校区が異なったので。たしか一度 (高 2 だったかな)、たまたま再会してぼくの家へ泊まりに来ましたが、「高校やめよかな思てんねん」。ツーちゃんがボソッと洩らした独り言を、なぜか覚えています。

風の便りでは、ツーちゃんはその後プロのバンドマンになったそうで、村田英雄のコンサートでピアノを担当している、という噂が聞こえてきました。いや、三波春夫だったかもしれません、とにかく大物の演歌歌手でした。ぼくは半信半疑でしたが、音楽で生きるのは大変だなあ (必ずしも好きなジャンルで食えるとは限らない) とか、ピアノを10代後半から始めて間に合うのかなあ (ツーちゃんは小学校時にピアノを習っていなかったはず) とか、なんとも複雑な感情に揺さぶられたものです。ただ、その噂の信憑性がどうであれ、ぼくにはなぜか真実っぽく思えたのです。

ツーちゃんならきっとうまくやるだろうな、と。WEB 検索をすれば、ひょっとしてツーちゃんの情報に触れられるかもしれませんが、今日まで実際に試したことは一度もありません。……Your time has come to shine.  ……All your dreams are on their way.  

それでは、また。
See you soon on note (on Spotify). 





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