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”この世ならざる”を音にし続けた生き様が結晶する......冨田勲「イーハトーヴ交響曲」より"銀河鉄道の夜"






映画『蜜蜂と遠雷』でとうとう”世界初演”を果たした「春と修羅」についてあれやこれやと考えていて、教科書でしか読んだことのない宮沢賢治という人のことをちょっとは知ってみようという活動を始めつつあります。宮沢賢治と音楽、といえば冨田勲の「イーハトーヴ交響曲」がありますね。と聴きなおしてみると、幻想と暖かみの絶妙な塩梅にゾクゾクきました。3年ぶりくらいにまじめに聞きなおしましたが、改めてすごい作品です。

このディスクについては非常に優れた、というか一編の文学作品としか言いようのない、完成されつくしたコラムがありますので、重ねて何かを述べるのは気が引けるのですが…w 自分の言葉でささやかながら記していこうと思います。


このコラムには愛の深さ、それを言葉にできる造形の深さにただただたまげました。そういう人に私はなりたい。



冨田勲(1932-2016)は現代日本を代表する作曲家であり、手塚治虫作品の「ジャングル大帝」「リボンの騎士」の音楽で有名ですが、日本で初めて大規模なシンセサイザーを取り入れ、多彩な音色とレンジを組み合わせた多重録音による楽曲作成は、既存のクラシック音楽に新たな息吹を吹き込み、電子音楽の礎を築き上げます。この立体的・幻想的な音響は"TOMITA SOUND"と呼ばれ世界中で親しまれています。(「月の光」や「火の鳥」でググってください)


その冨田が幼少期に宮沢賢治の作品から受けた衝撃を、音楽という形に昇華させたものが「イーハトーヴ交響曲」になります。80歳での作品で、それも児童・男声・女声の3種類の合唱とオーケストラにピアノと電子楽器を伴う大作ですから、まさに集大成と呼んで差し支えないでしょう。





「銀河鉄道の夜」は同作品の七曲中五曲目で、「この世ならざるもの」の美しさを最も表している楽曲に思います。

鐘の音とともに幕が上がり、サーカス調の3拍子で「ケンタウルス露を降らせ」歌うのはVOCALOIDの初音ミクで、澄み切った空と祭りの非日常の空気、主人公ジョバンニの居る世界へと即座に誘ってくれます。

声でこの世ならざるものを表現するという試みは、1900年初頭においても歌詞のない歌唱ヴォカリーズによって試みられていて、ホルストの「海王星」、ニールセンの第三交響曲、RVWの第三交響曲などでも「彼方からの呼び声」として効果的に用いられているものを聞いたことがありますが、初音ミクの起用もこの延長線上にありそうです。「この世ならざるもの」の表現として抜群にはまっています。



空気は澄すみきって、まるで水のように通りや店の中を流れましたし、街燈はみなまっ青なもみや楢ならの枝で包まれ、電気会社の前の六本のプラタヌスの木などは、中に沢山たくさんの豆電燈がついて、ほんとうにそこらは人魚の都のように見えるのでした。子どもらは、みんな新らしい折のついた着物を着て、星めぐりの口笛くちぶえを吹ふいたり、
「ケンタウルス、露つゆをふらせ。」と叫んで走ったり、青いマグネシヤの花火を燃したりして、たのしそうに遊んでいるのでした。けれどもジョバンニは、いつかまた深く首を垂れて、そこらのにぎやかさとはまるでちがったことを考えながら、牛乳屋の方へ急ぐのでした。
(青空文庫「銀河鉄道の夜」より引用。以下同様。)


随所に挿入され口ずさまれている鐘の音はカンパネルラを模しているのでしょうか(イタリア語で鐘という意味があります)、楽しげながらもどこか寂し気な、ジョバンニの孤立感を想起させるワルツは、一転して甘美な音楽へと繋がります。ラフマニノフの交響曲第二番第三楽章の息の長いメロディがトランペットによって優しく奏でられ、汽車の拍動のようなピアノに乗って盛り上がっていきます。カンパネルラと銀河をめぐる旅を楽しむジョバンニの高揚感でしょうか。瑞々しいシークエンスです。


そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとおって、ときどき眼めの加減か、ちらちら紫むらさきいろのこまかな波をたてたり、虹にじのようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐光りんこうの三角標が、うつくしく立っていたのです。遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙や黄いろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、或あるいは三角形、或いは四辺形、あるいは電いなずまや鎖くさりの形、さまざまにならんで、野原いっぱい光っているのでした。ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をやけに振ふりました。するとほんとうに、そのきれいな野原中の青や橙や、いろいろかがやく三角標も、てんでに息をつくように、ちらちらゆれたり顫ふるえたりしました。
「ぼくはもう、すっかり天の野原に来た。」ジョバンニは云いました。


中間部では再び「ケンタウルス露を降らせ」のフレーズが児童合唱とともに歌われると、ここで男声と女声による重々しい讃美歌によってクライマックスを迎えます。


いつなのか わかりませんが
主はわたしに いわれるでしょう
もうよい おまえのつとめはおわった
その地をはなれて ここにおいで
どこなのか わかりませんが
とわに平和に くらしましょう
御神とともに いつかどこかに


銀河鉄道は、「とわに平和にくらすどこか」へと乗客を運んでいるのですね。


「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸さいわいのためならば僕のからだなんか百ぺん灼やいてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙なみだがうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧わくようにふうと息をしながら云いました。
(中略)
「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニが斯こう云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座すわっていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。ジョバンニはまるで鉄砲丸てっぽうだまのように立ちあがりました。そして誰たれにも聞えないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉のどいっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。 
ジョバンニは眼をひらきました。もとの丘おかの草の中につかれてねむっていたのでした。胸は何だかおかしく熱ほてり頬ほほにはつめたい涙がながれていました。



電車が遠ざかると、初音ミクが再びケンタウルス祭の歌を歌い、そしてゆっくりと幕が下りていきます。


冨田勲さんも、この列車に乗ってどこかで永久に平和に暮らしているのでしょうねえ。そう信じさせる力を、この作品に宿していかれました。生前冨田さんは「宮沢賢治はサイケデリックである」とおっしゃっていたそうです。その幻想が、宮沢賢治が夢見たものが、冨田さんが追い求めた音楽が、この作品でこの世に二つとない宝石として結晶している。そう思います。美しく、力強い作品です。