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イグジットなき我々に

運動が千切れるほどの運動。絶対零度。ゼロ度の運動。いいだろう、誰にも読まれ
ない



にはしかし千切れる文字どもの炸裂を目に耳に突き刺さるよう爆破しよう。
いや、寧ろ凍土として未到の凍土としてマントルとして、
aからcの間のあいうえをがにがおえにのがを食べた

意味を越えること
突き破ること
表面の意味は破られ捲られるがホワイトスクリーンとしての言語空間は破れない。
イグジットなき我々に自由があるとすればその言語空間の内部で言語的粒子の反応停止温度である絶対零度までそれらを冷凍することによってでしかありえない。それはドゥルーズがいうところの、可能にすることができないもの消尽したものになることである。

〈疲労したもの〉(fatigué)は単に現実化を尽くしてしまったにすぎないが、一方の〈消尽したもの〉(épuise)はすべての可能なものを尽くしてしまう。疲労したものはもはや〈現実化する〉ことができないが、消尽したものは〈可能にする〉ことができないのである。(・・・)もはや何一つ可能ではない。つまり徹底したスピノザ主義があるのだ。

『消尽したもの』ジル・ドゥルーズ・宇野邦一・高橋康也訳

では、どのように消尽したものになるのか?絶対零度を熱的死として考えてみよう(厳密にいうとこの二つは違うらしいしかし、どのように冷却されるかということであれば、断熱膨張による温度低下が一番わかりやすい考え方だろう)つまり、熱力学的に考えることである。

いや、しかし可能にすることができないものである消尽したものこそがすべてを可能にしてしまうつまり、それこそが可能性の条件になっているのではないか。


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