人糸

 天からは幾つかの糸が垂らされていた。しっかりと結われた頑丈な造りでありながら、その途上で無残に千切れているものもあれば、(『参考までに教えておくと、あれが君が最後に使った糸だよ』)、細すぎて今にも捩じれ切れそうなものもあった。(『あの糸はこの前よりも遥かに細くなっているねぇ』) もしも仮に、描写における逆説的な物言いをするのが許されるのであれば、そこにはそのような無用な糸しか存在しなかった。(『昔はそのようなことなど無かったし、君の傲慢さが招いた結果なのだからそれを甘受しなければならないよ』)
 思考の靄を晴らす様にして、虚空に向かって大きく声を張り上げる。
「それで、俺はどの糸を選べばいいんだ?」
 その言葉は反響する事無く近くに留まり、糸の所に収束したと思うと、薄靄を形作る。
『おやおや、今更それを僕に尋ねるのかい?』
 全く以て君という生命は愚か極まりないね――などと嘯き、声の主は靄の中からその輪郭を縁取った。これと言った特徴の無い凡庸な顔。街中でこのような顔の持ち主を探せ、などともし言われることがあったとすれば、逆に探すのが困難であるほど個性のない風貌をしている。それは、自身が整形をする前の、つまるところはかつて自分の一番嫌いであった部位をそっくりそのまま鏡映しのように有していた。
 はぁ、と深い溜息をついて彼は続ける。
『どの糸にも正解は無いよ。君は覚えていないみたいだからもう一回懇切丁寧に教えてあげると、それは「人糸」と呼ばれるものだ』
 さっき言った千切れているものが君の母親の「人糸」、か細く立ち消えそうなものが君の小学校以来連絡を取り合っていない同級生の「人糸」だね。おっと人の「人糸」は普通数十本はあるはずだけど君の「人糸」は十数本しかないねぇ……なんてことを、薄笑いを浮かべながら一つずつ指さして述べる。
『僕は君なんだから芥川の「蜘蛛の糸」を知っているとは思うけど、「人糸」はそれを一つの指向性を以って具象化したもの。つまるところ、何かに縋り付きたくなるほど追い詰められた時に、無意識下で縒り合わせられる人の縁を糸の形にしただけのものさ』
「……俺は、そんなことを聞きたいんじゃない」
 煙に巻くような迂遠な説明にいらいらと靴を踏み鳴らし、再度強調するように尋ねる。
「俺は、どの糸を、選べばいいのか聞いているんだが」
 そんな態度に肩をすくめ、
『あの糸もあの糸あの糸も。どれもこれも同じだよ。当たり外れなんてないし、僕にとってみれば全て同価値さ』
 少なくとも僕にとってはね、などと小声で続ける彼には見向きもせずに思考する。どれを選んでも同じ、ということであればここで悩むことに意味はない。ここで徒に時間を浪費することこそが一番の無駄であるのだ。であるならば、と手近な紐を掴む。選んだのも、ただそれが他のよりも少し太く見えたというだけ。その糸に手を掛け一、二度引っ張り確認した後、いざ天上に登ろうとした時、ぶつんという音とともに、無造作に引き下げられた糸ははらりと地面に落下し消えて見えなくなった。他の糸を引っ張ってみても同じ。あるものは自身が引っ張らずとも掻き消えてしまい、遂には近くにあるように見えた、最後の一本まで引き抜き尽くしてしまった。
「……これも外れだったか」
 腹立ちまぎれに手に残った糸屑を振り払う。ふふふふ、と忍び笑いが聞こえ振り返ると、男は変わらずそこに立ち尽くしていた。そうして人差し指を立てて、説法のように続ける。
『運命を掴もうとするように、そしてあるいは、それを以てくじを選ぶように。そのように為してははならない物事もあるということだけれども、君は僕であるのに、いや君が僕であるからこそ、とても愚かな選択をするのだね』
 人を小馬鹿にするような科白を厭わしく感じ、男を手で振り払うが感触も無く、亡霊の姿は霧の様に掻き消え、掌にはただ反動で無惨に千切れた糸が残っているだけであった。(『君は、君自身という存在すら頼りに出来なくなっているということを示しているわけだから、最早これ以上に相応しい終わりはないだろうと僕は思うわけだが、君はどう思うかね?』)

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水無瀬 綾那

色彩表現と猫が好きな大学生のようなもの
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