ぼくのわたしの幸福論

 中学時代の夢の一つに『人生の絶頂期において(予め依頼をしておいた殺し屋に)射殺されたい』というものがあった。人生を幸福なうちに締めくくりたい。絶頂期を過ぎた後の失落が堪えられないなどと完璧主義を嘯き、かといって積極的な自殺はしたくないから無意識のうちに命を刈り取って欲しいというポジティブなのかネガティブなのかよく分からない結論へと終着した結果である。「人生の絶頂期」などという主観の大幅に混じる要素判断を人任せにする辺り実に無計画である。ちょっとした成功を収め小金持ちになってこれから遊ぼうとしていた時に殺される、なんてこともあるだろうに。

 今日徒然とするのはそう言った認識と事実に基づいた「幸福」の話である。とはいえこの話を書き留めておこうと思った発端はこの前プレイしたエロゲであるから、大上段に見栄を切っても格好が付くはずもないので手早く結論を言おう。私は、認識論的な幸福主義を是として賞賛する人間である。
 昨今の、とは言っても2010年代のという大きな括りになってしまうかもしれないのだが、エロゲで評価されやすいものとしてグランドエンド、トゥルーエンドと呼ばれるものがある。(もっともそれを重視するあまり細部を魅せることが出来ず評価が低いというものもあるが、それはまたの機会に語るとしよう)  世界の真相を解き明かす、表題を回収する、根本となる問題を解決するといった機構を持つこの仕組みは、裏を返せば他のヒロインのルートでは部分的にしか上記のことが為されないということである。他ヒロインでのエンディングは仮初の幸福である、なんて言う人もいるだろう。主人公とメインヒロインにしか出来ない世界の救済を為さず、世界が壊れるという終わりをサブヒロインとの安寧という微睡みの中で一市民として迎える。それは客観的に見ると不幸なことかもしれないが、それはその世界を生きる一市民として見ればひどくありふれた、そうでありながら何者にも代え難い幸福ではないのだろうか。最大多数の最大幸福・杓子定規の幸せなんていうものは、等身大の認識的な幸福を前にしたのならば少なからずくすんでしまうものであるのかもしれない。そんなことを、思った。

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