鯨骨生物群集

 はらはらと舞い落ちて、そうして降り積もって。けれどやがて、その堆積物は宵闇に飲み込まれるようにして跡形もなく消えていく。曇った窓硝子からは、少し季節外れの粉雪が車道の黒を淡く濡らしているのが見えた。
 淡雪が窓硝子の外側に水滴を散らしている。僕は外に出て、扉にClosedの標識を下げ、『喫茶Quelle』と書かれた電飾看板に点灯しているランプを消した。
 少し冷たさを孕み始めた風に指先を悴ませながら、後片付けを始める。しつこい汚れの付いた皿をスポンジで洗った後で、食洗機に掛ける。そうして洗い終わったものを、カウンター席で突っ伏しながら眠りこけている華の隣のスペースに置いていく。
 華が最後に頼んでいた青く甘いカクテルは半分以上中身が残っている。僕はそのグラスを手に取って中身を捨て、食洗機に入れる。華は何かを掴もうとするように何度か手を中空に彷徨わせて、そうして何も掴めないまま、腕を静かに下ろすと『京』という言葉をぽろりと零すように口にする。僕はそれに答えるようにして、華の長い髪を梳いた。

 カウンターの掃除を終わらせて、僕は窓を軽く拭きながら外を眺め見る。上から下へと流れるようにして拭き、ふと、埃を被るようにして窓枠に置かれていたスノードームに手が当たった。Miyako Itoigawaという名前が裏側に流麗な印字で刻み込まれた、鯨をモチーフの中核にした装飾道具。それは昔ここで働いていた京が、これをわたしだと思って、なんて言って僕に、正確に言えば、僕と華に残したものであった。
 ポリレジンで作られた鯨は、長い年月を経ているせいか所々が白く剥離していた。そうした剥離物が、スノーパウダーと共に、海底にいる生物の群れたちに降り注いでいる。
 それをぼんやりと眺めていたが、突然掬い上げるようにして指が絡め取られる。目のとろんとした華は、僕を引き寄せたあと、そのまま僕の方へと顔を近づけ、僕と華の距離はゼロになる。熱く絡まり合う舌に感応するように、痺れるように全身が熱くなる。
 
 口付けを交わした後、華は何事も無かったように元の体勢に戻り寝息をたて始めている。僕は熱を失った唇に手を当てた後、静かに溜息を付いた。

 僕と華の関係を言葉で表そうとするといつも、かつて京が僕に話してくれた『鯨骨生物群集』なんて言葉が頭に思い浮かんでくる。それは京が、この喫茶店にスノードームと同じようにして残していった、海洋生物たちの図鑑にも載っていた説明だった。
 鯨骨生物群集は、海に深く沈んでいった鯨の死骸に群がった生物の閉鎖的な集団のことを指している。僕も華も、京という存在がなければお互い交わることのない人生だった。
 けれど、京が僕たちの前から突然姿を消してから、僕たちはお互いがお互いを見ないままで、それでいて、お互いの中に残っていた京の残滓をどうしようもなく見ずにはいられなかった。そうして曖昧な関係のままで交わり、傷の舐め合いは、お互いの身体と京への思いを鑢をかけるように緩やかに削りながら、関わりを深めて行っている。

 かつて、鯨骨生物群集は鯨の死骸が完全になくなってしまった後でどうなるんですか、なんて疑問を京に投げ掛けたことがある。それに対して京は、解明されていないのだから正確には言及出来ないことだけど、なんて前置きをした上で、鯨骨という観測対象を失ってしまったあとのことは当事者たちにしか分かりえないことでしょうと言って、薄い笑みを浮かべていた。
 いつの間にか、粉雪もスノードームも、白く淡い雪を降り積もらせるのを止めている。豆電球の薄明かりの中で、華の寝息だけが聞こえていた。

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