あわい

『繰り返しになるがね、きみ、ここは気軽に遊びに来る場所なんかじゃあないんだよ』
 いつか、どこかで聞いたことのある、鈴の鳴るような声で彼女は言った。
『全く。生きながらにして死んでいるなんて、きみは本当に難儀な生き物だね』
 身に覚えのない、けれど確かに耳朶に響く馴染みのある言葉。
『今日は一段とどろどろとして酷いものだね。その様子では会話すらも覚束ないようだし早く元の場所へと帰りたまえ。あぁ、「また来てくれ」だなんて言いやしないよ』
 ぱちんと何かが鳴る音がして、ただでさえ薄ぼんやりとしていた視界は完全に暗転した。


 ひどく酒を飲んだ。二十杯より先は最早覚えていない。やれ先輩の酒が飲めないのか、やれ某の就職祝いとして酒を飲むのだ云々といった名目で並々に注がれた杯を、これまた呑み干さなければ男ではないだろう。最も、大学四年生という最高学府の頂と呼べるものを臨みながら、就活でもなく単位取得でもなくただ休学を申し出たわたしにとって、先輩などという、けったいでふんぞり返った老害など最早存在しない概念上の存在であるし、就活などもっての外関係ないことだ。これぞ巷で言うもらとりあむ、というヤツである。であるならば猶更、理由などなくとも、そして記憶を飛ばして医者の手に掛かることとなろうとも、呑まずにいる道理など無い。
 しかしながら随分と飲み過ぎたせいか。足が震える、頭も震える、仕舞には世界も震える。会もお開きとなり、ぽつりぽつりと櫛の歯が欠けていくように人が抜けていく中、ごろごろと転がり落ちるようにして階段を下ると、はて。呑み屋である長屋の軒先に吊るされでもしていたのかちりん、ちりん、と鈴の音がする。時候は処暑を越え白露。もうじき秋分を迎えようとするのに酷く時期外れなものだ、などと考えているうちに、ぐるんと目が回り、世界が回り、舞台もまた回った。

 延々と続く渡り廊下、そしてそれを蛇行するようにして存在する踊り場のようなところ。そこに大の字になるようにして放り出されている。二日酔いというほどには時間が経過していないのだろうが、酷く痛む頭を抱えながら辺りを見回し今置かれた状況を俯瞰する。洋装の渡り廊下には蠟燭の火が灯っており、壁に掛かった、古びて時間を刻む機能を喪失した時計を嘗めるようにして炙り照らしていた。過度な金色の装飾に彩られた窓からは、廊下の対岸となるところにもまた同様に灯りが燈っているのが見える。だがそれだけの情報では、ここがどこか分からなければ今の時間というものも分からない。ただ一つ言えるのは、ここが先ほどまで居た襤褸のような呑み屋では無い、ということだけであった。その思考の糸を乱すようにして、仰向けになった顔へさっと黒い影が掛かる。
『きみは凝りもせずまた来たのかね』
 幼い声だ。齢にして十二、三ほどであろうか。ため息とともに無造作に放たれた言葉は、どこか歳不相応な達観の混じるものがあり、大人のみが有する事の出来る艶やかさを感じさせられた。暗転した視界の機能を回復させてそちらを見やると、その声の幼さに違うことも無く、一人の少女が立っていた。
 酷く頼りない蠟燭の灯りの下、少女の銀の髪は蜉蝣のような揺らめきに照らされて、ぬらぬらとほの暗い灰黒色へと染まる。彼女の白磁のような肌はそこに現出する影によって、全てを惑わす蜜毒となりわたしの前に立ち現れる。白色の襦袢の上に羽織られた緋色の着物は毒々しいほどに照り映えて脳髄に染み渡る。顔に目を移すに、目深に被った上半分だけの狐面によって口以外の情報が秘匿され、その唇と言ってもうっすらと真一文字に横へと引かれているのが見えるのみであった。夢、うつつの者。彼女は、恐らくではあるが、人間であると認識できる器をとうに越えてしまっている存在であるように感じられた。
 
「君」
 絡まる痰を押し留めて声を発する。
「君のことは何と呼べば良いんだい」
 くすり、と上品に口角を僅かに上げて少女は答える。
『そうだね。きみは、ぼくのことをミコと呼ぶこともあったし咲良と呼ぶこともあった。だけどそれは今のぼくを示す名前では無いから、きみが思うがままに好きに呼ぶといい』
 理解の及ぶ範囲の代物では無かったが、それがまるで過去有った事実であった、とでもいうように胸にすとんと落ちる感触があった。そうか。そうであるのならば、この少女に名を付けねばなるまい。
「そうだな」
 つつ、と少女のことを指で指し示す。どこか現実離れした、そしてそうでありながら生々しい質量を持つ少女。それを文字という形で抽出するのであれば……。
「あわい」
 喉から滑り落ちるようにして言葉を吐き出す。
「君の名は、淡だ」
 ふと零した名に、感嘆を受けた、と言う訳でもあるまいに少女はぽかんと口を開けている。
『まさか、きみは覚えているのかい』
「覚えていないということだけは覚えているよ」
 仰々しく両手を広げながらそういうわたしに、はぁ、と聞こえよがしに大きなため息がつかれる。
『期待をしていいのかと思ったらすぐ裏切られる。そう言えばきみは、そういう男だったね』
「お褒めに預かり恐悦至極」
 恭しく一礼をすると、少女の顔は更に呆れを帯びたものとなった。時間もないことだし、と呟きを残し、少女はそれを振り払うようにして首を一度振るい居住まいを正す。
『まぁ何はともあれ歓迎するよ。ようこそ、この「迎庵」へ。まぁ最も――』
 そうして、年相応というには少しひねた笑みを浮かべて、
『君の来訪は、回数にしてこれが記念すべき百回目の出来事となるがね』
 少女は事もなげに、そう言った。

 ぱちり、ぱちりという音だけが、二人で存在するには聊か広すぎる場に空疎に響く。顔を突き合わせるような距離でありながら交わされる言葉も無く、木目の酷く乱れた古ぼけた盤の前でただ向き合うのみである。人の顔色を窺うという行為を得手としないわたしであるが、なおもって、仮面を被った人形のような少女の顔色などというものが分かるはずも無く。今自身が優勢であるのか劣勢であるのかということすらも窺い知れない。ぱちり、ぱちりとそのまま指していたが、ふと彼女が駒を指す手を止める。三二金。自陣に深く切り込まれた今となっては、王で受けるか、あるいは持ち駒の香車で受けるかという手である。わたしは手を止め、頬を掻き熟考に入る。それを見て彼女は溜息を深く零す。
『既に詰んでいるよ』
「ははぁ。君がそう言うのならそうなんだろうね」
 手にしていた金を置き、さらさらと盤面を崩す。
『普段は適当な手を即座に繰り出すのにどうしようも無く終わる頃になって熟考に入る。きみの悪い癖だよ』
「まるで何度も見て来たかのように……おっと、君の叙述を信ずるのであれば見て来たのだったね。であるならば、同じ相手ばかりで飽きはしないのかい?」
『……きみの適当に指す手は思ったよりも種類があって助かっているよ』
 悪い癖だ、と指摘した時と何も変わらぬ口調と顔色で彼女はそう述べた。ばらばらと手にした駒を手慰みに振るい落としながら重ねて尋ねる。
「それで、わたしはどうしてここに呼ばれたんだい?」
 少女は少し間の抜けた顔になり、それからふっと小さく吹き出される。
『その質問は実に七十三回目振りとなるけど、一つ間違えてはいけないことがあるよ』
「間違えてはいけないこと?」
『ここは、本来呼ばれる場所なんかじゃなくて、迷い込む場所であるということだ』
 少女がわたしの後背を指し示したかと思うと、どさっと鈍い音が聞こえた。振り返ると、ぬちゃりと、スライムのような粘着質の黒い物体がそこに蠢いていた。ぎぎぎぎぎぎぎ、と耳障りな音を立てるが、突然色素を失うようにして灰色になり、逆再生をするように高く飛び跳ねたかと思うと、溶け込むようにして、白色の天井に吸い込まれていった。
「……あれは?」
『あれは現世で命を失いかけた人間さ。ここの空間においては、あのような姿で辿り着く場合が多い。活力を失い、黒のままの魂は下に沈み冥府に至り、白に戻る魂は現世へと戻り命を吹き返す』
 そして今度は、少女は後背ではなくわたし自身の方を指で指し示して、
『ちょうど、今のきみと同じようにね』
 と、次第に色を失っていっているわたしの体を指さした。肌色が色を失い、指が透き通る。そしてそのまま宙へ浮かび、天井へと吸い込まれていく。腹部に力を入れて踏ん張り留まろうとするも全く意味を為さず、そしてまた天井へと手を付いて阻もうとするが空振りするばかりで無為に終わった。
『きみの無意識下にある薄ぼんやりとした希死念慮が抜けない限り、きみはここに来続けることだろう。だけど、当然ながらここは生者が気軽に来るべき場所ではないんだ』
 その少女は、口許を覆い隠す様にして、どこからか手にした扇子をぱちりと開いた。
『だから、また来てくれ、だなんて言いやしないよ』
 ちりん、ちりん、とどこかで聞いた鈴の音と共に、ぐるんと目が回り、世界が回り、舞台もまた回った。暗転する前に見えたのは、下を向き少し俯いた少女の物悲しいうなじだけであった。


 「淡」と名の付けられた少女は男の吸い込まれていった天井を見やると、艶やかな着物の懐から一つの玉を取り出した。少し露わとなった肌は酷く青白く、生気を感じ取ることが出来ない。そしてそれとは対照的な、まるで先ほどの最後の場面での男が成り果てたような色をした、透き通った美しい玉。それが一瞬で黒色に染まったと思うと、拡大するようにして先ほどの男が映された。宵闇の中で目を覚ました男は間抜けそうに頬を掻いている。男のいる軒先からは、聞き覚えのあるちりんちりんという鈴の音が聞こえていた。
『実体を獲得するほどこの場に慣れてしまえば、それは私と同様に手遅れになる。そうして、死にたいと願っても死ねない器に押し込められることになってしまう。だから、百回あることは百一回ある、なんてことは勘弁願いたいんだけどね』
 冷たく突き放すような言葉とは裏腹に少女の口許は少し綻んでいたが、少女自身はそれに気づいていない様であった。

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