事実恋愛

 都会において夜空が赤く染まる事があるのは、地上に明かりが有り過ぎるからだ、なんて事を何処かで聞いた事がある。僕はどろりと滲み出すようなあの黒赤色が好きではなかった。子供の戯言のように聞こえるかもしれないが、あれを見ていると、まるで世界が終わるかのように感じてしまうからだ。終わってしまう事は何よりも怖い。だから、僕はそれがどんな形であっても続いていく事を望んでしまうところがあるのかもしれない。

 薄明かりの中を二人で歩く。外灯もなく足元すら覚束無い、暗い路を越えていく。もう少ししたら目的の場所に着くだろうか。いや、着いてしまうのだろうか、と言った方が適切なのかもしれない。ちらりと彼女の方を盗み見てみるものの、夜目の利かない僕には彼女の表情を窺い知ることなど出来そうも無かった。
「今日の合宿はどうだった?」
 沈黙に耐え切れずに、どうでもいいような会話を投げ込んでしまう。僕の悪い癖だ。気まずい間が苦手な癖して、何かを話すには会話能力が余りに欠け過ぎている。そして、話したいことはあるはずなのにすぐにそれを言葉に組み立てることが出来ない。悪友が聞けば、お前は仮にも文芸サークルの一員だろうに、なんて言ってくるだろう事が容易に想像できる。
「まあまあね。読書会自体は面白かったと思うけど、その後の飲み会の馬鹿騒ぎでプラスマイナスゼロってところかしら」
「皆も悪い奴らじゃないんだけどね。それに卒業旅行も兼ねてって事だし仕方がないよ」
「そうね」 
 沈黙の帳が降りる。そうね、というのは彼女にとって会話を終わらせたい時に出す一種の合図のようなものだ。短い付き合いというわけじゃないから、それくらいの事は分かる。だからこの後、どんな話が彼女の口から紡がれるかというのもまた、分かってしまう。
 畦道を抜ける。記憶が正しければ、ここを過ぎれば後は一本道で、トンネルを抜ければ程なく目的地に着くだろう。これで、終わり。道行の果てに何があるか、そんな事は分かりきっているけれど。僕はこのじくじくと鬱蒼とした暗闇にそれを預けて、見えない振りをする。そんな僕の思考を掻き乱すように――最も僕にとってそれは好都合であるけど――まるでノイズのようにザザザザーッ……ザザザーッ……なんて音が薄らと聞こえてくる。それはそうだろう。僕らのサークルが合宿で来ているのは、安くて落ち着いた場所だから、なんて理由で合宿先に選ばれた、都心から少し外れた所にある浜辺なのだから。そして、男女が二人、飲み会を抜け出して浜辺でする会話なんて二つしか無い。それは告白か、あるいは……。
 暗闇が僕の視界を一瞬だけ支配し、僕たちは浜辺へと辿り着く。彼女はすたすたと僕よりも数歩先に歩み出して――そして、振り返りながら、僕の想像していた通りの言葉を吐いた。
「今日で、『契約』は終わりにしましょう」

 月光の明かりにぼんやりと照らされた彼女の顔は驚くほどいつも通りで、だからこそ余計に、契約という無骨な言葉がざらりと異質なものとして反響した。契約、というのは至極簡単なものだ。それは僕、糸崎亮と、彼女、糸川冬花がとある文芸サークルに所属している間においては付き合っている振りをするというもの。今流行りの『事実婚』という単語になぞらえて言うならば、少し歪な表現ではあるけど、『事実恋愛』といったところだろうか。
「そうだね。これが卒業旅行なら、もう続ける意味ないもんね」
 別にこのままの関係を続ければ良いんじゃないか、なんて喉まで出掛かった声を押し留める。それは胸に秘めていた激情に対して理性が押し勝った結果などでは決してない。そう答えてしまった場合に、僕と彼女の関係が本当の意味で終わりを迎えてしまう事を、ただ、経験則で理解しているからに他ならない。
「ええ。申し訳ないわね。私の我が儘に二度も付き合わせちゃって」
 少しだけ済まなそうな顔をする彼女。ここは、何か気の利いた言葉を返すべきなのだろうけど、生憎と此方は目に涙を溜めないように力を入れるだけで精一杯だ。それも仕方の無い事かもしれない。なにせ彼女に振られるのはこれで二回目なのだから。正しく表記するなら、高校の時に「だらだらと恋人関係を続ける意味が分からなくなったのよね。友達に戻りましょう」なんて理由で振られたのが一回、そして今回こうして「振られた」のが一回だけど。
 彼女は何かを続けていくのが昔も今も苦手だ。ましてやそれが彼女にとって特別な意味を見いだせないものであるならばなおさら。僕と彼女は友達の関係性へと戻った。だからまさか、大学生になって、こんな事になるとは思いもしなかった。

「だけど、うちの大学の気質にも困ったものよね」
 心底疲れた、という風にため息をつきながら彼女がぼやく。
「気質というと?」
「前にも言ったじゃない。サークル内恋愛なんて別れた時とか振った時とかに面倒くさいことになるから、こうして付き合ってる振りをしてもらったわけだけど。付き合ってる人が居るって言ってるのに『とりあえず一発ヤらせてくれー』だなんて言ってくるのは流石に想定外だったわ」
「そうなると、そもそも付き合ってる振りをする意味なんて無いもんね」
 苦笑しながら言う。元々大学で誰とも付き合う気が無く、そうでありながら日常的に告白は受けてしまう容姿を持つ彼女にとって、僕は隠れ蓑にするには丁度いい存在だったわけだ。実際僕たちが付き合っているのを疑っている人なんてほぼいなかっただろう。なにせ高校の時に実際に付き合った事のある二人だったんだから。付き合っている振りをするのなんて容易い事だ。それでも予想の斜め下に越えてくる下半身直結星人はいたみたいだけど。
「それにしても良かったの? こんな茶番に付き合ってもらったわけだけど。せっかく華の大学生活なのに本物の彼女作らなくて人生損してない?」
 茶番って。それはここまで僕を振り回す人が言う台詞では無いと思う。好きな人くらいならばそれはもう長い間いる訳ではあるけども、もう一度告白したところでどうなるかは、火を見るよりも明らか、というよりもさっきの再現かそれ以下で終わりだろう。だからここは、少し笑って誤魔化すに止めておく。
「前言ったでしょ? 僕は何かが終わっちゃうのが怖いんだって。恋愛でもそうってだけだよ」
「前にも同じこと言ってたけどあんたそれまだ言ってるの? まぁこの前の読書会でも今日の読書会でも古典じゃなくって存命の作家ばかりチョイスしてくる辺り変わってないとは思ったけど」
「冬花だって完結した漫画とか故人の本しか読まないじゃないか」
「私のことは別に関係ないじゃない」
 いつかした事のあるやり取りの焼き直しであるような、そんな会話。終わる事に恐怖を抱かずにはいれない僕と、終わっている事でないと安心できない彼女と。どこまでも正反対で、だからこそお互いに無い部分がどうしようもなく気になってしまうのかもしれない。たとえそれが、お互いがお互いを見る見方が違ったとしても、だ。男女間の友情なんて実のところ存在しないんだぜ、恋愛経験豊富な俺が保障しよう、なんてキメ顔で言う悪友の顔が浮かんだが、それは今考える事でもないので脇に置いておく事にしよう。
夜風に吹かれ、彼女はくしゅんと小さなくしゃみをする。僕もつられてくしゃみをしてしまい、ぶるりと体を震わせる。寒くなってきたしもう帰りましょ、と言う彼女にそうだねとだけ返して二人、まるで何事もなかったかのように、元来た道を引き返していった。

 ざりざりと砂を踏む音がする。それも少しの間だけで、靴が草を踏みしめる、音とも言えないようなうっすらとしたものにしかならなくなり、やがて静寂に支配される。話しかけたい、なんて思っていた事は幾らかあったと思う。だけど一方で、こんな沈黙も悪くはないな、なんて久々に感じてしまっている自分がいた。『始まりが無ければ終わりが無い』なんて何処かで聞いた事があるフレーズだけど、こと会話という事に関しても、その言葉が適用出来るのかもしれなかった。
行きの時よりも少しだけ離れた、どっちつかずの距離。この関係は、友達以上恋人以下なんてそんな曖昧でよく分からない言葉で表すことが出来るだろうか。
「もう終わっているからこそ終わらない、微妙な関係が嫌いじゃないのかもしれないね」
 仄かに聞こえる波の音にすら隠れるようなひっそりと溢した声に、当然の事ながら彼女は此方を振り向くこともなく、ただ二人の足音だけが微かに聞こえるだけだった。

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