見出し画像

【枕草子】再び、香炉峰の雪


ドラマで作ってくれないのならば

「光る君へ」では、『枕草子』のエピソードをあまり取り上げてくれないみたい。宣孝御嶽詣での時は期待したが、あれはまひろにも関わる話だから採用したということなのか。そもそも藤原道隆一家の描き方が雑過ぎ、下げ過ぎと感じる。貴族の傲岸ぶりは道長政権になってからもそう変わらないと思うが…。

嘆いていても詮なきこと。ドラマで作ってくれないのならばnoteで書こう。スキの数など気にせずに。

これまでもいくつか取り上げてきたが、不定期にでも『枕草子』にある”ちょっとよい話”をいくつか紹介していきたい。文章も訳文も難解で、まだ解釈しきれていないところも多々あるが、老いてからの勉強ゆえご容赦いただきたい。

1月末、このnoteで「香炉峰の雪」について取り上げた。この時は「光る君へ」出演者サイン色紙を見て久しぶりに思い出したばかりで、白居易の詩を読んで直感的に思ったままを書いた。

それから3ヶ月。
『枕草子』の本を買い、関連書籍を買い、ネットで情報発信している親切な人たちの話を見聞きして、だいぶ勉強した。
もう一度取り上げてみたい。

以下、前半で『枕草子』原典について、後半で「光る君へ」での描写について述べたい。

主役はあくまで定子さま

まず『枕草子』の原文を引用する。

雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子まゐりて、炭櫃に火おこして物語などしてあつまりさぶらふに、「少納言よ、香炉峰の雪いかならむ」と仰せらるれば、御格子上げさせて御簾を高く上げたれば、笑はせたまふ。人々も、「さることは知り、歌などにさへうたへど、思ひこそよらざりつれ。なほこの宮の人にはさべきなめり」と言ふ。

「新訂枕草子 第282段 雪のいと高う降りたるを」より

この段は、清少納言の後宮女房としての才覚を象徴する逸話としてのみならず、彼女の自慢話としても受け止められている。それゆえ「鼻もちならない」という印象を持つ人も少なくない。「女性は高い学問を身につけるより、内助の功を示してほしい」という社会的要望が強かった時代はなおさらだろう。

清少納言に、「あの頃は、我ながら気が利いていたわね~、ウフフフ。」と自慢したい気持ちがあったことは否定しない。その思惑は十分にあっただろう。しかし、それよりも何よりも書き残したいことは中宮定子の統率力と、意思の伝え方の素晴らしさである。

ここで言う「御格子」とは、後年「蔀戸(しとみど)」と言われるようになった建具とされている。すなわち格子の裏に板を張り、現代の雨戸のように使われていた。上下2枚あり、上は鴨居から吊り下げ、下は敷居に留める。(コトバンク「蔀戸」の解説より)

この日は大雪なので、女房たちはいつも昼間に上げておく格子板戸を下ろしていた。部屋の中は暗く、女房たちは炭櫃に火を起こして暖を取り、背中を丸めてだらだらとおしゃべりに興じていた。

広い屋敷とはいえ当然、室内の空気がよどんでくる。当時は換気不十分な室内で炭を焼くと一酸化炭素中毒になりかねないという知識などもちろんなかったはずだが、「閉め切った部屋で長時間炭櫃にあたっていると、気分が悪くなる人が出てくる。一旦外に出させたら落ち着く。」と、経験則として理解されていたとも考えられる。

定子は部屋を見回して「いくら外が寒くて温まりたいとはいえ、これではあまりにもたるんでいるわ。」と、嘆いたであろう。暗い部屋で、生ぬるい空気が自分のいるところまで漂ってきて、だるくもなってくる。

しかしここで

「あなたたち、何ぐーたらしているの!格子上げなさい!」

と、ストレートに言ってしまうのは無粋に過ぎるし、

「だって、寒いんだもの~~~。いくら中宮さまの仰せでも冷たいのいやだ~~~。」

と、内心ぶつぶつ言われてはお互い不愉快な思いをする。
そこで頼りになるのは清少納言。

「冬はつとめて、雪の降りたるは言ふべきにもあらず」に始まり、「冬は、いみじう寒き」など冬や雪の情趣を好み、美意識も高い。きっと本人もせっかくの雪景色を見たいだろうし、私も楽しみたい。

そこで思いついたのが白居易の「香炉峰下新卜山居」の詩。今どきの流行りだし、女房たちもよく知っている詩だし、これを例えに出せば場の空気がおしゃれにもなる。

「少納言、香炉峰の雪はいかがであろうか。」

この仰せを聞いた清少納言もまた部屋を見回し、戸を閉め切ってぐでっとしている女房たちの姿を目の当たりにして、そういえば自分も気だるくなっていたと気づいたのだろう。

中宮さまも、私も雪景色を楽しみたい。新しい空気を入れたら、みんなの気分も改まるはず。

そうひらめいて、控えの者たちに格子を上げさせて外の光を入れる。さらに自分も加わって簾を上げて、中宮が座っている場所からも見えるようにする。

定子が満足気に微笑んだのは言うまでもないが、他の女房たちから「寒い!」「また中宮さまにゴマすってる!」などの批判が出ず、逆に感心されたのは、空気が入れ替わって気分がすっきりしたからであろう。

すなわちその場にいた人たち誰もが冷たい空気で温かく心なごみ、リフレッシュされた。定子の、むやみに人を傷つけない人心掌握は今の時代にも立派なお手本になり得る。清少納言は「初めて中宮様にお目通りして、誰かがくしゃみをして不吉だからと”私のこと嫌いなのね”とすねていた頃より大きく成長なされた。帝にふさわしい、すばらしいお后になられた。」という手ごたえも感じて、とりわけ嬉しく思えただろう。だからこそ、後年その温かさを泣きたくなるほどに懐かしく思い出して、書かずにはいられなかったのだろう。この段が長く語り継がれ、「春はあけぼの」に次ぐ有名な話になったのは、その奥底に流れる二人の優しさを感じ取れる人が、いつの時代にもいた証である。

『枕草子』を貫く姿勢は「定子さまファースト」である。定子さまのためなら、自分は鼻もちならない印象を受けることも、「雪山の賭け」のように道化になることも厭わない。「雪山の賭け」(職の御曹司におはしますころ、西の廂に)の話は出来事の日付を細かく入れて、ドキュメンタリーのように記している。「(999年)1月15日まで残る」とした自分の予想が当たり、女房仲間との賭けに勝てる直前になったまさにその時、定子の命により雪山が片づけられ、約束していた和歌も詠めなかったと肩を落とし、聞きつけた帝までもがお笑いになった…という「トホホな話」は、その時期に一条帝と定子がおよそ2年ぶりに夫婦水入らずの時を過ごし、11月の敦康親王ご誕生につながったという重要な記録をカモフラージュするために書かれたと考えられている。

公任目線のサイドストーリー <二次創作>

「光る君へ」の話に移る。以前の記事でも触れた通り、ドラマで定子サロンは「伊周の傲慢ぶりを見せつける場」として描かれた。香炉峰の雪の逸話は、若い公卿たちと帝・中宮の親睦の場で使われた。

公任や斉信には「かつて政の理想を目指して漢詩の会を開いた道隆殿の家が、酒でもてなして若手公卿を取り込もうとした藤原義懐殿とあまり変わらないほど堕落してしまった。帝や中宮さまは想像以上に素晴らしいお方だが、いかんせん取り巻きが悪すぎる。」という印象になっただろう。

大石静先生のブログを読み、若干思うところがある。
「道長の、まひろお姫さま抱っこ」に夢中な大石先生の脚本に対するもやもやが収まらないゆえ(たねちゃん生き残ってほしかった)、藤原公任目線でサイドストーリーを考えてみた。演者さんファンの方に叱られそうではあるが、何卒お許しいただけますように。

☆☆☆

994年、冬のある日。
朝から降り続いている雪が峠を越した。

「藤原公任さま、お見えでございます。」

登華殿に通された公任の前に、朱色の衣姿の女房が平伏していた。顔を上げると、どこかで見た覚えがした。

「公任さま、しばらくぶりでございます。」

「うん…あっ、ききょう殿?」

「さようでございます。」

「おお、ここでお目にかかれるとは。漢詩の会以来ですね。」

「打毬も拝見しました。」

「ははは、あれはお恥ずかしい。…まだ誰も来ていないようですね。」

「ええ。皆さま、雪が小やみになってからおいでになるおつもりでしょう。帝も中宮さまも、遅れて構わないと仰せですゆえ。どうぞお当たりください。」

ききょうは炭櫃をすすめる。

(前は、ずいぶんでしゃばる女だと思っていたが…変わったな。で、どうしてここにいるのだ?)

「ききょう殿は、女房になられたのですか?」

「はい。中宮さまより”清少納言”の名を賜りまして、働いております。」

「せいしょうなごん…よい響きですね。」

「でしょう?中宮さまが名付けてくださいましたの。」

「ははは。中宮さまはうわさ通りのお方のようですね。」

「そうですよ!とても素敵で麗しくて!早くお目通りしてくださいませね!」

ききょうは瞳をキラキラさせる。

「楽しみに待つとしようか。」

「公任さま。打毬に出ていた、道長さまの弟君はどうなされていますか?」

「いえ、聞いておりませぬが。」

(そういえば道長、あれ以来全然その話してないな。どこかで会ってもよさそうなのに。関白はあれほど身内びいきしているのに、任官したとも聞かないし。)

首を傾げる公任。

「失礼申し上げました。」

「漢詩の会は懐かしいですね。」

「そうですわね。思えばあそこから、わたくしの道は開けました。」

「”元微之のような闊達なうたいぶり”には驚きましたよ。」

「失礼でしたわね。」

「いやいや、いかにもききょう殿…清少納言殿らしいです。父亡き後、あの頃のこと、たまに思い出すようになって。…そなたのお父上は、ご息災ですか。」

「いえ、4年前に身まかりました。」

「そうですか…お悔やみ申し上げます。橘(則光)殿、出仕をお許しになられたのですか?」

「いえ、夫や息子とは別れて参りました。」

「ほう!」

「やはり、私は己の道を見つけ、己のために生き、それを人の役に立てていきたいのです!中宮さまにお仕えできて、これ以上の幸せはございません!」

(今でもでしゃばりか。でも女ということを取り払えば、案外やり手ではないか。…ん?夫と別れただと?斉信が知ったらどうなるのだ?)

いつしか、雪はほぼ止んでいた。

「藤原斉信さま、お見えでございます。」

斉信、そして行成がやってくる。二人とも、献上品の大きな包みを従者から手渡されている。

(しまった、俺は何も持ってこなかった。…まあいいか、物でご機嫌を取る者と思われても損か。)

派手な足音が響き、伊周が上座に歩いてくる。一礼して顔を上げた途端、目を疑った。

(さ、桜の襲<かさね>の直衣だと?! 御前を何と心得ているのだ!)

「皆さま、本日はお足元お悪い中大儀でございました。帝はまもなくお出ましになられますゆえ、今しばらくお待ちくださいませ!」

(嫌な奴だとは思っていたが、これほどとは…)

以下ドラマの場面に合流する。

「少納言、香炉峰の雪はいかがであろうか。」

定子に問われた清少納言はしばし考えを巡らせ

「御簾を。」

と命じる。

「光る君へ」第16回より

(「香炉峰下新卜山居」か、白楽天流行っているものな。ききょう殿らしい。中宮さまとよくお似合いだ。ん、まだわかっていない者もおるようだな。)

「光る君へ」第16回より

再びドラマの場面に合流する。

会が終わり、公任は斉信と行成から飲みに誘われる。牛車を降り、茜色に染まった雪道を踏み歩く。

(いかん、つい調子に乗って遊んでしまった。…帝も中宮さまも、確かに麗しかった。お人柄もよくわかった。が、このくたびれ感は何だ。これでは義懐殿の酒宴とあまり変わらないではないか。お二人はご立派なのに…取り巻きがよろしくないな、特に伊周。…北の方さまは中宮さまにかかりきりゆえ、他の子どもを天狗にさせたのか。関白殿も、北の方さまも、がっかりだ。父上の仰せ通り、道兼殿についてよかったのやも。)

以下ドラマの、雪玉4個の場面に合流する。

<終>

このストーリーは第16回までの放送を踏まえて作った。橘則光はドラマに登場しないようだが、史実からのゲストとして間接的に言及した。

どこらへんまで描くのだろう?

4月もまもなく終わる。早いもので、「光る君へ」はおよそ1/3まで放送された。

「5月末から、まひろと為時の越前編を描く」と発表され、さらに後半の主要人物となる、成人の藤原彰子や三条天皇の扮装も披露された。

となれば、どの時点をゴールとするつもりか、そろそろ気になってくる。

紫式部は生年も没年もはっきりせず、複数の説がある。生まれた年についてはどれかに決めないとドラマが始まらないので、藤原道長(966年生まれ)との恋愛関係が不自然にならない年齢差となる、970年生まれとしている。

一方没年は、道長よりも先に亡くなったという説もあれば、長生きしたという説もある。福井県越前市で作っているパンフレットでは、早く世を去ったとしている。

紫式部が『源氏物語』宇治十帖を書き上げるまでは確実に描くだろうし、三条帝を出すからには道長との確執も描くのだろう。が、早い没年とすれば道長の「望月の歌」(1018年)までは描かれないことになる。藤原隆家が指揮をとって対処した「刀伊の入寇」(1019年)はどうか。そのあたりを入れるために、まひろを長生きさせるのか。

まひろと道長のソウルメイトの関係は『源氏物語』の完成をもって、現世での役割を終えるはずであるが、大石先生もまだフィニッシュをどうするか決めていないと伺っている。

加えて、乙丸が最後まで出るかどうか。「ブギウギ」山下マネージャーのように途中引退するのか。演者さんのお人柄もあいまって、乙丸は人気上昇中であるゆえ、注目したい。

「ブギウギ」は福来スズ子と羽鳥善一の師弟関係が終わるまでを描いた。本作でも同様として「望月の歌」までは描かないか、それとも…?

※記事タイトル画像はyukarimurasakiさんのイラストを使わせていただきました。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?