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フェリーに乗ってライラックを見に行く(6)

ライラックコレクション

百合が原公園の一角に「ライラックコレクション」と名付けられた庭園がある。リリートレインの駅や温室棟から見て少し奥まった位置にあり、少し探してたどり着いた。

創成川公園や大通公園より少し遅れて開花するようだが、日当たりのよい株は既にうす紫の結晶を光らせていた。全体的に背の高い木が多い。

ライラックコレクション庭園
見上げるほどのプレジデント・リンカーン
品種名記録を忘れた
午後のポカホンタス
木漏れ日浴びて

ここでは「プレジデント・ポワンカール」という品種が見られた。1910年代のフランス大統領、レイモン・ポアンカレにちなむ名前だろうか。

プレジデント・ポワンカール

まだほとんどつぼみだが、咲いている花はもしかして五弁のラッキーライラック?写真をよく見たら後ろの花と交錯してそう見えていたようである。

他にも創成川公園にはない品種がいくつかある。

シルバー・キングか?
アルフォンス・ラヴァレ

アルフォンス・ラヴァレ(Alphonse Lavalle)。想像だがlavalleはラテン語のlavare(洗う)に由来する、すなわちラベンダーと同じ語源の品種名ではないだろうか。

リラの色した風の中、背中をキュッと弓なりにして歩いているうち、ある株に目が止まった。

桜色のライラック

つぼみはうす桃色、花はソメイヨシノを思わせるかすかなピンクを帯びた白。呉服店の店先や古くからの街の和風おみやげ屋などでよく見かける、日本人に好まれそうな色合いである。千歳飴や和菓子など「おめでたい紅白」ものにもよく使われている。他のライラックとは明らかに一線を画す。

私の他にも写真を撮りに来ている人が何人かいたが
「わー、これ可愛いね!」
と、皆さん目を輝かせながらシャッターを切っていた。

百合が原公園のホームページ ライラックコレクションに掲載されている写真を見ると、花房が咲きそろうと白っぽくなってしまう模様。咲きかけの頃が最も可憐な姿を見せる。

咲き初めのリラの色こそ
愛しけれ
恋知る頬のうす紅に似て

桃いろのつぼみ
いずれは白き花
若きときめき忘れるごとく

後ろの白樺林との相性も絶妙だった。

白樺にうすもも色のライラック

公園ホームページ掲載の写真には五弁のラッキーライラックが含まれている。私が撮った写真でも五弁に開きかけている花が認められる。他の品種よりも五弁になりやすいのかもしれない。この点においても桜を連想させる。日本人の好みの琴線に触れやすい品種だろう。

足元の品種名標記を見たら「クラサヴィトサ・モスクヴィ」(Krasavitsa Moskvy)と、ロシア語の名前がつけられている。”美しきモスクワ”という意味だろうか。ロシア語表記ではкрасавица москвыとなる。1974年に当時のソビエト連邦の人が生み出したらしい。

ロシア…。
昨今の状況を鑑みて思わず身構える心が悲しい。かの国にも平和と文化を愛する人はたくさんいるはずと知ってはいても。

うすももの
リラの花辺の露西亜名を
かなしと思ふ心なるかな

平和を願う

公園ホームページによればもう1種ロシア由来の白いライラック「ソヴィエトスカヤ アルクティカ」があるそうだが、まだ開花していない模様。

突然背後の空からエンジン音が響いた。JALマークをつけたプロペラ機が飛び去る。百合が原公園は丘珠空港のすぐ近くにある。

利尻行きJAL2885便か

15時すぎに公園を引き上げた。公園の正門左右の歩道はライラックの並木道になっている。さすがにくたびれてきたし、早く次の予定に移ろうとして写真を撮り忘れた。

石段のないこんぴらさん

路線バスの栄19に乗車しようとしたが、最寄り停留所で時刻表を見たら1時間に1本で、前のバスが出てから12分ほど経過していた。それならば一旦公園に戻って出直せばよいところだったが、栄町駅まで行ってしまった。そろそろ注意力が散漫になってきた。ライラック並木道のほかにもハンカチノキや林檎の木など見ていないところがまだあるのに。

地下鉄栄町駅16時12分発のバスに乗車。百合が原公園の方向に戻り、市街地を抜けて発寒川を渡ると石狩市に入る。「藤学園前」という停留所がある。著名人も幾人か卒業している学校で、あーここにあるのと思ったが、市街地中心に近いところにもキャンパスを有しているらしい。

右折して北上する。次第に家がまばらになり、道路際まで雑木林が迫る。終点石狩庁舎で下車して5分ほど歩くと花畔という集落にたどりついた。

花畔は「ばんなぐろ」と読む。私の故郷には真畔(まなくろ)公園という小さな公園があったので「畔」を「くろ」と読むことについては納得できるが、濁り方が想像を超えている。アイヌ語の「パナウン・クル」(川下に住む人)に由来するという。

このあたり、私が幼い頃の故郷すなわち東京23区の隅を何となく思い出させる。まばらな住宅、アスファルトが素っ気なく続く道路、小さな商店、雑木林、広い校庭。ということは、東京はじめ本州の大都市近郊だったら高度成長期に大きな団地が造成されてニュータウンと呼ばれ、今では高齢化で「限界ニュータウン」と報道される運命を辿っただろう。花畔団地もあるらしいが。そうならなかったあたりに、札幌を擁する石狩平野の広大ぶりがうかがえる。

花畔には1920年代に軽川(手稲)から「軽石軌道」が来ていて、その終点駅があったらしい。物質の軽石ではなく、軽川と石狩を結ぶから「軽石」。さらに「がるいし」とまた濁る。馬車軌道で1日3往復だったそう。1937年に運転が休止されてそのまま廃止された。

戦後は1950年代・1960年代に桑園駅から石狩港までを結ぶ「石狩鉄道」「札幌臨港鉄道」構想が立てられたが一部で着工したのみで挫折したと記録されている。その後1990年代にはモノレール構想もあったという。多摩モノレールや千葉モノレールを思うと改めて首都圏一極集中ぶりが実感できる。

1922年に公布された改正鉄道敷設法では花畔に留まらず、札幌と増毛を結ぶ日本海岸の鉄道が計画されている。この区間は親不知(新潟県西頚城郡)以上の難所で、山が直接海に落ち込む地形が連続して、鉄道の建設は到底無理だったらしい。同区間を経由する国道231号線の全通は1981年だった。

が、留萌本線の延長が実現して、花畔をはじめ聚富・望来・石狩厚田・安瀬・濃昼・送毛・浜益・幌・雄冬・岩尾・大別苅・増毛と難読駅オンパレードになっている世界の国鉄駅名標妄想もまた楽しい。あえて読み仮名は記さない。

住宅地と疎林の中に花畔神社がある。

花畔神社参道入口

この神社は創建時(1872年)金刀比羅之大神を最初に祀り、「花畔村金刀比羅神社」としてスタートしたという。すなわち讃岐金刀比羅宮の分社である。調べてみたらかつては本殿にも丸に「金」の社紋を入れた幕や「しあわせさん こんぴらさん」の額が掲げられていたらしい。

神社由緒碑

「石段が全くないこんぴらさん」。

航海安全の神様を祀るということは、すなわちこの地が海からそう遠くないことを示している。小樽から銭函までの函館本線沿いの海岸をそのまま北東へ進めばここに至る。

開拓碑には陸中岩手郡、すなわち石川啄木の故郷にも近い地に暮らしていた人たちが1871年に入植した経緯が記されている。

花畔開拓碑

小さな参道に4対8体の狛犬が鎮座している。

神社境内 海の気配は感じられなかった
神社本殿

本家金刀比羅宮に続いて夕暮れの参拝だったので、既に閉まっている。境内にはおみくじが多数結ばれているから、昼間ならば開けているのかもしれない。本殿隣には金刀比羅宮と同じ丸に「金」の幕を張っている窓があったが、神職さんの個人宅かもしれないので写真は割愛する。今回も良き旅にできたお礼をしてきた。再び飛行機の音が響いてきた。

何処へ行く便か

神社の裏手にはバスの操車場がある。これも幼い日の故郷を思い出すロケーション。17時を回ったので、すぐに乗らないといけない。

さらば花畔

新琴似~夕映えライラック

花畔17時02分発の麻13に乗車。地下鉄麻生駅で空港連絡バスに接続できれば1,100円で新千歳空港まで行けるが、時間が合わず新琴似駅通で下車した。駅までの新しい道路もライラックの並木道になっている。

新琴似のライラック
夕映えの花

鉄道は新千歳空港まで1,310円。その代わりいくらか早く着ける。

札沼線にはあまり縁がなく、石狩太美と札比内の間を乗らないままに非電化区間が廃止された。札比内から先は1996年に乗車している。”乗りつぶし”派ではないので別に構わないが、晩生内や札比内がなくなったのは惜しい。それなのにまた乗る機会が巡ってくるとは皮肉である。

新琴似を発車した電車は札幌市中心部と手稲山を望むように走る。

新琴似付近

このような風景を見るたび、猛暑と窒息しそうな湿気に襲われる熱帯夜が何よりも苦手で、冬眠ならぬ”夏眠”ができないかとかなり本気で思う私は札幌がうらやましくなってくる。

「年を取ったら慣れた大都会暮らしが鉄則。地方移住などゆめゆめ思いつくなかれ。」という終活指南術や、何十年も夢見ていた地方移住をいざ実行したら土地の有力者ににらまれて陰湿な嫌がらせを受けたり、濃厚な人間関係を強制されたりで都会に戻らざるを得なくなったという数多の失敗談記事が車窓をよぎる。

これから帰る家は早くも猛暑日に見舞われたという。ふっとため息をつく。

札幌駅で乗り換えた快速エアポートはかなり混雑していて、中へ押し込まれた。乗客のほとんどは飛行機になど乗りそうもない格好をしている。どこで降りるのかと思うほどなく、最初に停車した新札幌で大半が降りて、車内は立ち客がちらほら程度になった。

美瑛を思わせるなだらかな林に夕陽が近づく。昨日のフェリーよりも雲が少なく、球体が次第に光を弱めていく様子がはっきりと眺められた。

不意に大きな建造物のシルエットが現れた。角度によっては富士山のようにも見える。これがうわさの新球場と気づいたが、昔はどんな様子だったか全く思い出せない。「北斗星」「トワイライトエクスプレス」「はまなす」はじめ、快速や普通列車から幾度となく見てきたはずの車窓なのに。おそらくはその頃気にも留めなかった原野を切り開いて建設したのだろう。

ごめんねライラック

空港ターミナルビル内にある「五島軒 新千歳空港店」でおなかを満たしてから飛行機に搭乗した。このお店のレポートは稿を改めたい。

定刻に離陸。シートベルト着用サイン点灯中機内照明が落とされる。窓に近づくと眼下に一面の夜景が広がった。空には文字通り満天の星。息を飲むほど美しい夜間飛行に恵まれた。苫小牧上空から海に出る。

20分ほど過ぎただろうか、再び窓の外を見ると光の束がいくつか闇に浮かぶように見えている。やがてひときわ大きい光のじゅうたんが広がった。

…仙台市。
ならば今まで見てきた光は手前が栗原市、登米市など。奥の海沿いが気仙沼市、石巻市など。

飛行機は進む。光のじゅうたんの端は名取市、岩沼市。その先、海沿いに連なる光は相馬市、原ノ町(南相馬市)、浪江町、双葉町…。震災で大きな被害に遭った地域を見渡すように飛ぶ。北海道へ行くたび厳粛な思いに包まれる。

常磐湯本、小名浜港、勿来、日立と光の帯が遠くに続く。少し広い光面が現れ、あれが水戸ならばもうすぐ筑波山と思う。筑波山らしき漆黒を通過して高度を下げると、蚕の繭のような白い光が無数に広がってきた。田舎の道路街灯を空から見るとそのように見えると気がつく。そこから千葉港の上空で東京湾に出るまでが意外と長く感じられた。

着陸したら蒸し暑い空気が早速出迎えた。鞄には大通公園でいただいたライラックの苗木が入っている。ファーム富田から送られてくるラベンダー苗木のカタログを見て、家でも植えられたらいいけれど蒸し暑いからとても無理とため息をついていたと、今更ながら思い出す。おそらく育てられないだろうが、せめてできることはしてあげたい。

熱帯のような土地に連れてきてしまった。
ごめんね、ライラック。



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