アイデンティティとしての一輪車
小学生の頃、僕はいわゆる「児童館っ子」だった。
地域の少年野球クラブに入ったりもしていたけど、心根はインドアだったのだろうな、と、今にしてみれば思ったり。
児童館というものに馴染みがない方のために少し説明すると、児童館というのは、おもに小学生以下の子どもが遊んだりできる施設のことです。「先生」が常駐していて、声をかければ一緒に遊んでくれたり、子どもが怪我をしないかを見てくれていたりします。
ぼくが行っていた児童館は、コマ、ベーゴマ、けん玉、ホッピング、フラフープなどの昔ながらの遊具を取り揃えていたり、小さな図書室があったり、小さな体育館のようなホールでボール遊びができたりしました。
その中で、ぼくがもっとも熱中したのが、一輪車でした。
ええ、あの一輪車です。ぼくは来る日も来る日も一輪車の練習をして、転んでは起き上がり、また転んでは起き上がり。
もっとうまく乗りこなすためにはどうするべきかを一生懸命分析して、考えて、少しずつ上達していくのが最高の楽しみでした。
そして、いつしか、ぼくは片足だけでペダルを踏んで走行する「片足走行」までマスターしていました。
この経験は、ぼくに、強烈なアイデンティティを植えつけました。
練習したぶんだけ上達する、というサイクルの中で、ぼくは、自尊心を強めていったのだと思います。
ちょっといやなことがあっても、「まあでも、一輪車ならぼくが最強だし」と思うと、耐えることができました。
あまり友達の多くなかったぼくは、これで、みんなから愛される存在になったと、確信していました。
しかし。
小学生の世界というのは、シンプルがゆえの残酷な世界。
モテるのは、背が高い子か、足が速い子。つまり、「動物的に優れている」と見なされた、選ばれし子だけが、モテる。
一輪車がうまい子なんて、眼中にないのです。
や、べつに、モテるためにやってたわけじゃないけど!
でも、先天的に足が早いのはもてはやされて、努力して一輪車に乗れるようになったのは見向きもされないなんて、知らなかったのです。
頑張ったらみんな振り向いてくれるんじゃなかったの? と、悲しくなりました。
や、べつに、モテるためにやってたわけじゃないけど!
男子からの評価もまったくありませんでした。
驚くべきことに、男子が同性の友達に求めていたのは、「面白さ」であって、「一輪車のうまさ」ではなかったのです。
一輪車がうまい、というのは、男子的にも、特に評価できることではなかったのです。
じゃあ、ぼくはなんなんだ。
なんで、あんなに必死に一輪車を練習していたんだ?
自問自答の日々です。しかし、答えなど出るはずもなく、ぼくは一輪車を降りました。
引退です。
それ以来、ぼくは、一度も一輪車に乗っていません。
曲芸師でもない限り、それが、意味をなすことはないからです。
まあ、でも。
たぶん今でもできますけどね、片足走行!
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