「なんでもは知らない」

なんだかさいきん、世の中的に、「自分には知らないことがある」という気持ちを表明しづらくなってるような感じがする。

なんでも知ってる人が最強、みたいな。

ぼくは、これは、少し息苦しい。

だって、そんなに無敵でいられないもの。

何かを知らなかったとき、

「知らないので調べます」

と言って、ひとつずつ足りないものを補強していけばいいと思ってる。

小説を書いていると、当然、自分の脳内だけでは作りきれない部分がでてくる。これについて書きたいけど、調べものをしないと書けない、という。

そうやって、『小説を書く』ということを媒介にして、ひとつずつ新しい言葉を知ったり、ふだん接することがない世界を覗いてみたりするのは、楽しい。

みんな、小説書けばいいのにって、ほんとうに思う。

それって、すごく素敵なことだと思う。


だから、「知らないことがある」状態を、おそれすぎる風潮は、あんまりよくないかな、と思う。

だって、「なんでも知ってる」なんて、ありえない。

『化物語』の羽川翼さんも言ってるじゃないですか。

「何でもは知らないわよ。知ってることだけ」

単なるキメ台詞といえばそれまでだけど、羽川さんは賢いからこそ、人間の認知の限界を思い知らされてるんじゃないかって。

(少なくとも『好きな男の心の掴み方』は知らなかったわけだから……)

(あ、でもここ最近のシリーズ追えてないから、ひょっとしたら掴んでるかもだけど……!)

ひとつの分野で優秀な人に、別の分野での知見を期待しすぎない方がいいんじゃないかなって。

科学者に政治への知見を期待しないとか。

スポーツ選手は人格者でなければならないとか。

それができちゃってる人もいるけど、それは、特例だと思う。


小説なら、書くという行為を経由して、社会にふれて、新しいことを知っていく。

科学なら、研究という行為を経由して、社会にふれて、新しいことを知っていく。

スポーツなら、練習や試合を通じて、社会にふれて、新しいことを知っていく。

なぜなら、誰もが『なんでもは知らない』から。

みんな、自分の分野を媒介にして、新しいことを学んでいる最中なんだと思う。

方法は違うけど、みんな『勉強中』ってことで。

それでいいんじゃないかって。

そう思うんです。

だから、ぼくがいつも『みじかい』という言葉を漢字で書くときに、毎回「あれ? 『矢』が左だっけ? 『豆』が左だっけ?」とわからくなるのも、現在、勉強中なんです。

気長に待ってね!

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