毎週日曜は本の日! 『予想どおりに不合理』

こんにちは! リルカです。
さて、昨日の日曜にアップできなかったのですが、今日も元気に記事をアップしていきたいと思います!

毎週日曜は本の日! ということで、今回取りあげるのはダン・アリエリー『予想どおりに不合理』です。
以前もnoteの方でちょろっと紹介したかと思いますが、今回はすこしまとまった形で書かせてください。

この本は、『行動経済学』という、経済学に人間の心理を織り込んだ分野についての本なのですが、これがとても面白く、また興味深い話がたくさんありました。
どういう本かを一言で説明すると、人間の『不合理な部分』について実際の研究紹介を交えながら、その『不合理』な部分が経済活動にどのように関わってくるかを語っています。

その中でも、読んでいて特に面白いと感じた部分を紹介したいと思います。

「社会規範」と「市場規範」についてです。

平たく言うと、「社会規範」というのは、無償の奉仕など、主に人と人の信頼関係の上で仕事や物の移動等のやりとりが成立している状態です。
一方、「市場規範」というのは、その名の通り市場の原理で成り立っている関係のことです。給料を支払う、スーパーで物を買うなどはこの「市場規範」です。

本書には、僕たちの社会はこの2つを両立させることでうまくいくと書かれています。
そして「社会規範」で成立している関係に「市場規範」を持ち込むと、ロクなことにならないという例も挙げられています。
たとえば、招待された個人的なパーティが楽しかったからといって、帰り際に主催者に「いくら払えばいい?」と訊ねることは、場合によっては主催者を怒らせることになります。
また、女性とデートをしてお代を払ってあげたからといって、それを理由に関係を迫るようなことはあってはなりませんよね。
このようなことが、『「社会規範」「市場規範」を持ち込む』ということです。

さらに本書では、「社会規範」で成り立っていた場所に一度「市場規範」を持ち込んでしまうと、その後で「社会規範」を取り戻そうとしてもうまくいかないという事実についても触れています。

どういうことかというと、こちらも例があります。

あるイスラエルの託児所は、子どもの迎えに遅れてくる親の存在に悩まされていました。それまでは「社会規範」の枠組みの中でやりとりをしていましたが、ある時を境に、迎えに遅れた親には罰金を課すこととしました。罰金があるならば、迎えに遅れることはないだろうと考えたのです。
しかし、結果、罰金に効果はありませんでした。むしろ、良くない効果が現れました。
それは、罰金を課すことで、遅刻した親の罪悪感が吹き飛んでしまったのです。
それまでは「社会規範」の範疇で、遅刻すれば「申し訳ないな、次は気をつけよう」という感情を抱いていた親たちが、そこに罰金という「市場規範」が持ち込まれたことによって「罰金を払ったんだから遅れてもいいだろう」という気持ちになってしまったというのです。
それに気づいた託児所は、慌てて罰金制度を取り下げました。以前の「社会規範」のある状態に戻そうとしたのです。
しかし、時すでに遅し。罰金を止めたのち、親の遅刻はさらに増えていきました。
「市場規範」の尺度のせいで、すでに親の罪悪感が消滅していたところに、罰金も消滅したため、親たちは遅刻してもなんとも思わなくなったのです……。
このように「社会規範」で成立していた関係に一度「市場規範」を持ち込むと、そこには二度と「社会規範」は戻ってこないのです。

……と、この例は極端だったとしても、どうしてもこの問題を考える時に想起することがあります。

それは、オリンピックのボランティアについてです。
今声高に言われているのは「国は国民の労働力をタダで手に入れようとしている」という批判です。人を動かしたいのなら相応の給与を与えろ、ということですね。
しかしながらボランティアというのは、言うまでもなく「社会規範」によって稼働しています。「オリンピックを成功させたい」「オリンピックを盛り上げたい」という想いを持つ人たちが集う場所であってしかるべきです。
そこに給与という「市場規範」を持ち込めばすべて解決するという話は、本書を読んだ後に考えると、少し立ち止まった方が良さそうに思えます。
本書には、「社会規範によって動く人」の方が「市場規範によって格安の給与で労働をする人」よりも熱心に働くというデータも載っています。
もちろん、「市場規範」にとっては「相応の給与を与える」ことが理想なのですが、それができないなら、下手に少額を与えるのはもっとも悪手です。
それよりも「やりがいがあるよ」と訴えて集った人に働いてもらった方が健全な運営をできるかもしれないと思うのは自然なことと思えます。
やりがい搾取、などとは言われますが、そもそもボランティアというのはやりがいをもとめて集うものだと思うので……。
だから「金を払えば人は集まる」という議論は、想像以上に慎重になされなければならないと、本書を読んで思いました。

ここからは個人的な推察なのですが、お金とボランティア参加者の関係を以下の3つに分類してみます……

①タダでもやる
②少額でももらえるならやる
③相応の金額がもらえるならやる

①は、まぎれもなくやりがいを感じている「社会規範」によって動く方々です。③は「市場規範」によって動く方々です。
そして、想像するに、②に該当する方はほとんどいないのではないでしょうか。いたとしても、モチベーションがもっとも低く、適当な仕事をする可能性が高いです。
そして、先ほどもイスラエルの託児所の例で出したように、もしも「給与を与えよ!」の声にしたがって1円でも出した瞬間に、①で集まっていた方々の「やりがい」は否定されます。残るのは「嘘みたいな安い金で買い叩かれた実感」だけです。③で必要な金額が払えないのなら、①の方の「やりがい」だけは死守しなければならないと思います。
1円でも払った瞬間に「社会原理」「市場原理」に吹き飛ばされてしまうのですから。そして、吹き飛ばされた「社会原理」は、もう戻って来ないのです……。


……ということを考えていました。もちろん、そのボランティアに魅力があるかどうかは人それぞれです。(僕はあまり魅力を感じません)
ただ、単にお金を払えば解決するというのも一旦立ち止まって考えなければならないことだと思った、というお話でした。

『予想どおりに不合理』は、考えるきっかけを与えてくれて、個人的にはとてもいい本だなと思いました。

ただし、別に本に書いてあることを鵜呑みするわけにはいきません。自分の頭で考えないといけません。ただ、考えたことのない問題に立ち向かうには、すでにその問題について考えたことがある人の話を聞くべきだと思います。

ここで取り上げた「社会規範」「市場規範」の問題について、また別の角度から取り上げている本をごく簡単に紹介して、この記事を締めたいと思います。
それは松村圭一郎『うしろめたさの人類学』です。

こちらの本は『行動経済学』ではなく、『文化人類学』という分野の本です。
この本は(僕が誤解していなければ)一言で言えば、「市場規範」によって吹き飛ばされた「社会規範」をもう一度取り戻すためにはどうすればいいか? について考えている本です。
この本では「社会規範」「市場規範」といった言葉ではなく、「つながり」「断絶」といった別の言葉で語られていますが、内容には通じるものがあると思ったので、ここで紹介してみました。

本を読んでいると、一見関係なさそうなことが結びつくということがあり、それが僕にとっては喜びであります。

これからもできる限り、一冊の本の紹介というだけでなく、できるだけテーマとして扱い、それに関連する本も紹介できたらいいなと思いました。

以上で、この記事を終わりにしたいと思います。
想像の3倍くらい長くなってしまいましたが、最後までお付き合いいただき、まことにありがとうございます!

基本はポップに記事を書きたいですが、たまにこういう記事も書くかもしれません……笑

来週扱う本はまだ未定です。頑張って読みます……!

次回の記事は、『毎週月曜は原稿の日!』です。この後できればすぐに更新したいと思ってます……。

ではでは!

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