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自分を大切にするために靴を買った

運命の一足なんかではないけれど、決して偶然でもない。自分なりに選び抜いた靴を買った。
ただそれだけなのに世界が変わったような気がした。

靴は自己評価

わたしはこの言葉を初めて知った時、「こんな自分には高い靴はふさわしくない」と思っていたしそのようなことを実際ツイートしたこともあると思う。勿論、あきやさんはそういう意味で使っているのではないと今はよくわかっているつもりだ。
自己肯定感どん底の自分には、(靴だけではなく何もかもに対して)いかにお得にものを手に入れるかによって得られる高揚感に救われていたんだと思う。わたしには時間があるから、そう思っていたはずだがそんなものはまやかしだ。気づけばもう40代が目前に迫っている。靴を大切にできない自分は、自分のことも大切にできていなかった。もっといろいろな世界を見てみたい。ベタだけれどそれには良い靴が必要だと思った。自分に良い靴を履かせてあげたい。良い靴を履いてそれを大事にして長く付き合いたい。そう思うようになったのはあきやさんのnoteに出会ったおかげだ。機会をくれてありがとうございます。

わたしと靴との歴史

自分で靴を買うようになった大学生の頃から、それはそれは色々な靴を履いてきた。スニーカーもパンプスもブーツも常に靴箱に複数入っていたが、どれも大切にしていたかというとハイとは言えない。履きつぶしては新しいものを買う。時には思ったよりも早くダメになってしまい損をした気持ちになっていた。それはわたしが物理的に足が入るかどうかと見た目と手に入りやすい価格しか見ていなかったからに他ならない。

就職して、特に実家を出ることが決まってからは少しずつ靴を減らしていった。新しく買う靴は少ない分ひとつ価格帯を上げても良いことにした。といっても、たまたまセレクトショップで目にした綺麗な色のピンヒールがそれまで買ったことのない値段だったので(確か2万円くらい)思い切って買ってみるという経験をした。2万円の靴を履いても良いと自分に許した日はとてもすがすがしい気持ちだった。それから何足かちょっといいヒールパンプスを買ったが、ローヒールの靴に関してはあまりお金をかける気が起きなかった。ピンヒールのスッとした佇まいが好きだったからだ。狭い靴箱には美しい靴が少しずつ増えていったが、それらを大切に沢山履いたかというとやはりハイとは言えない。ヒールの靴は美しいけれど私の生活には優しくない。そもそもリフト以外を修理する発想もなかった。修理代で新しい靴を買った方が良いと思っていたからだ。それがダメだとか言うつもりはないが、心が動かされるような靴を探すのは正直苦しくなっていた。気づけば「何にでも合いそうな」何の装飾もない、グレージュのヒールがひとつあればいいかな、なんて思うようになっていた。実際それは服やバッグを選ばず便利であったけれど、やはりすぐダメにしてしまった。乱暴に扱っているつもりはさらさらないが、プチプラもちょっといい靴も大切にはできなかった。もしかしたら歩き方が悪いのかもしれないけれど、それを矯正する発想もないしさらに高い靴なんてとても買う気になれなかった。勿体無いなと思いながら、これから死ぬまで、もしくはヒールで歩けなくなるまで、一体何足履きつぶして捨てなければならないのだろうと思うとぞっとした。いっそはだしで過ごせたらいいのに。

ヒールが履けなくなる時は意外と早くやってきた。そう子供ができたのである。手持ちのフラットシューズに加えてスニーカーを買い足し、約1年をノーヒールで過ごした。久しぶりに履いてみたヒールのある靴は「意外と歩けるな」と思ったが履く機会は数か月に1度きり、またどれも古く傷んでいたのでほぼすべてを処分した。流石にこの時は「はいてあげられなくてごめんね」と靴に謝りながらゴミに出した。

子供ができたら子供が最優先になり自分のことは後回しになっていた。それが当たり前だし別にファッションに気を使っていないわけではないからといって出来上がったクローゼットはまさに「服はあるのに着たい服がない」状態になっていた。でも思い返せば、着たい服ばかりだった頃からから自分はなんだかずっとダサかった気がする。年代に合ったそれなりに良い服を着ていても、だ。薄々気づいてはいたのだが、あきやさんの自問自答ファッションと出会いそれは確信に変わっていた。私のブレイクスルーポイントは靴なのだろう。


靴探し最終章_ホワイトラビットはここに

靴を買おうと決めてからも靴選びは難航していた。幸い足に合う靴は沢山あったが、見た目の美しさと履き心地の良さ、つくりの良さと丈夫さ、長く履けるかどうかはそれぞれ天秤にかけてどれかを諦めなければ不可能だと思った。それは前向きな妥協だった。沢山の(といっても30足程度だが)靴を試着したことにより、自分がその靴に対してどう思ったか言語化することができ自分が靴選びで大切にしたい点を明確にすることができたからだ。また、昔販売の経験があり靴の製法や手入れや修理に関するそれなりの知識があったので、自分のものさしで製品と値段のつり合いが取れているか考えることができたからでもある。極端な話、1度履いて壊れる靴が10万円するとしてもその人が納得いくならば買っていいんだと思う。「わたしにとって」何が最適かを考えた時に答えはすぐに出ていた。

わたしは新卒で入った会社を初めて訪れた時、そこで制服を着て働く自分の姿がはっきりと頭に浮かんだ経験がある。今はやめてしまったけれど、この感覚は自分の中で結構大事にしている。靴を履いた時に、その靴を履いて毎日の生活をしている自分と綺麗な服を着て新しい場所に行く自分を想像出来たのはフェラガモのモカシンシューズただ1足だけだった。

後から考えたらこれから働こうというのに毎日革靴で過ごすのは無理がある。主張がさりげないとはいえ、ハイブランドの靴は好ましくないだろう。でも、仕事以外ならどこへでも行けると思う。品があって、きらきらして、足にも合っていて、しっかりとしたつくりでアフターケアも充実している。そしてなによりもそれを履いた自分の未来が想像できる。運命的な出会いに憧れはしたものの、こういう理屈っぽい決め方が自分らしくていいかもしれない。

せっかくならば路面店で買う経験をしたいと思っていると、ある休日あきやさんが銀座にいらっしゃるということでこの日しかないと心に決めた。午前中に実際に路面店を訪れたのだがやっぱりまだ迷っている自分もいて即決できずにいた。伊勢丹でも同じ靴を履いたり別の靴を履いてみたりした。初めてそれを試着した時は、他にも沢山硬い靴を履いていたためにかなり柔らかい革の印象だったが改めて履いてみると記憶よりも全然硬かった。足にぴったり合っているという感じではない。美しいがそもそも一度はスルーした靴である。電流もポエムも流れない。演歌という気分でもない。あれ?わたしはもっと尖った靴を履きたかったんじゃないのかな?

一旦休憩をはさんであきやさんに会いに行くことにしたが、緊張と焦りと暑さとで汗が噴き出して止まらなかった。涼しい店内に入り化粧直しをしても汗は止まらなかったが気持ちは少しずつ落ち着いてきていた。今日、フェラガモの靴を買おう。そして明日からも毎日を大切に、自分を大切にして過ごそう。そう決めた。

わたしはあきやさんに会いに来ただけで(もちろんフィオライアさんのアイテムを見に来たのもあるが)、「ポエム流れてなくても買っていいですよ」とか講演会のあの感じで買っちゃだめですとか言ってほしくて来たわけではない。いつだって決めるのは自分自身だ。

あきやさんがバッグを見て私の顔を見てすぐに気づいてくださり嬉しかったです。次はフェラガモのトップハンドルをぶら下げてお会いしたいです。あの時ご挨拶させていただいた皆さん、ありがとうございました。わたしも自分の抜け殻をわたしのものであるとわかるようなものを身に着けたいと思いました。

赤はわたしの好きな色のひとつだ。紙袋と靴の箱と箱にかけられたリボン。
その日わたしが行けなかったフェスで自軍が懐かしい赤のスパンコールの衣装を着た写真がアップされ思わず笑ってしまった。
やっぱり今日が運命の日で、これが運命の靴だったのかもしれない。

路面店の壁面は赤一色ではなく白とのグラデーションが印象的だった。
わたしはこの黒い靴をホワイトラビット(導く者)として共に生きようと誓う。わたしは100歳までは生きる予定なので滅びるのは靴の方が先だろう。それでもこれからしばらくの間は共に進もうと思っている。


最後に、記念にバッグと靴の写真を記録します。
あまり上手に撮れていませんが宜しければ見ていってください!

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