短編小説 アリラン峠を越えて

太陽節の失敗 

 「何が太陽節だ、ろくに電気もきやしないくせに」。
 真っ暗なタワーマンションの階段を登りながら、周りに誰もいないのを確認して金白虎(キムペクホ)は悪態をつく。ここは誰もが憧れる地上の楽園、朝鮮民主主義人民共和国の首都平壌。今日は太陽節の行事で、白虎の働く化学製品工場の労働者たちも準備に駆り出された。ところが白虎が30分も遅刻したせいで、工場労働者全員が党員からこっぴどく叱られたのだった。
 翌日はちょうど土曜日で、職場に集まって生活総和が開かれた。今回の相互批判はもちろん遅刻をした白虎が格好の的となった。自己批判をする段になると白虎は「私は太陽節の準備に30分も遅刻をしてしまいました。こうした欠陥が表れるのは、革命課業に誠実であれという将軍様のお言葉を胸に深く刻んでいなかったからです。今後は将軍様のお言葉を真によく学び…」と笑いをこらえながらつらつらと語る。ところがここまで言ったところで、白虎は同じ会場の奥に妹の春花(チュンファ)がいるのを見つけた。周りの人たちが春花の方を向いて「妹は優秀なのに白虎ったらねぇ」と話している。悔しそうに唇を噛む春花にとって、兄は悩みの種であった。
 その日の晩、白虎がふと目を覚ますと春花の部屋からすすり泣く声が聞こえた。妹に恥ずかしい思いをさせてしまった罪悪感から、翌朝、白虎は野外市場へ出向き、春花のために韓国製の口紅を購入した。以前から密かに韓国文化に憧れていた春花はとても喜んだ。
  ところが、これを見た祖父の明勲(ミョンフン)は激怒した。
「こんな南朝鮮製のもの、見つかったら処刑されるぞ。だいたい資本主義に汚染された南の文化に憧れるなんで何事だ。お前らをそんな反動分子に育てた覚えはない」。
 明勲は春花から化粧品を取り上げ、大同江に放り投げてしまった。落ち込む春花に、白虎はかける言葉を見つけられなかった。自分の存在が妹に迷惑をかけていることが苦しくて、しばらく休暇を取り、白虎は家族から離れて北へ向かった。

鴨緑江のほとりで

 平壌から半日電車に揺られ白虎は、新義州という中国の丹東と橋がつながった北東の街に到着した。ここの野外市場には中国から入ってくる物品を求め、多くの人民が集ってくる。白虎が市場の隅でタバコを吸っているとじゃがいもの入った袋を下げ、くたびれたコートをきた女が「火を貸してください」と話しかけてきた。端正な顔立ちのこの女は朴美景(パクミギョン)といった。白虎は、彼女と話すうちに、彼女が昔は平壌に住んでいたことや、喜び組に入ったこと、そして母親が政治犯として収容されてから地方の共同農場で働いていることを知り、深く同情した。
 鴨緑江のほとりで2人は翌日も、その翌日も会って党の批判や身の上話をした。春風に吹かれた労働新聞が鴨緑江に落ち、向こう岸に飛んでいく。もう少しというところで川面に落ち、一面記事で笑う指導者の顔に水がしみていく。
「あの川の向こうに行けたらな、っていつも思うの」。
 中国の方を見つめて涙を流す美景の頬を白虎がぬぐおうとすると、恥ずかしそうに顔をそむけた。 

淡く色づく革命の炎 

 あっという間に休暇は終わってしまったが、週末になるたび、白虎は新義州を訪れた。ある日、美景は平壌に住んでいた頃、制服姿で撮った写真を白虎に見せた。
「平壌にいた頃は私、綺麗だったでしょう?」         
 道ゆく誰もが目を留める美貌、平壌での生活…どれも彼女が失ってしまったものだ。農作業で荒れてしまった肌やみすぼらしい姿の美景を見て心が痛む。白虎は意を決してこう言った。
「平壌に住みたいなら、俺と、け、結婚するか」。
 美景は立ち上がり、土手の方に向かって歩きながら誰にも聞こえないような小さな声で「白虎さんのことがすき」と呟いた。
 帰り道、白虎は窓の外をぼーっと眺めながら先刻の美景の言葉を反芻する。同時に反対する祖父の顔も浮かぶ。車窓はいつのまにか共同農場から高層ビルに変わっていた。白虎は決意を固めた。     

苦難の行軍

 空が青磁のような夏の日に、美景は5年ぶりの平壌駅に降り立った。はるばる白虎の家まで挨拶にきた美景であったが、明勲は美景の母が強制収容所にいると聞くと、冷たく追い払った。      
 肩を落として歩く美景の後を白虎はどこまでもついていった。大同江の川辺につくと、美景は水よりも澄んだ声で「アリラン」の悲しい旋律を口ずさんだ。白虎はそっと美景に耳打ちした。
「一緒に越えてしまおうか」。
 白虎が脱北のブローカーの存在を話すと、泣いていた美景は瞳を輝かせた。
 白虎が美景を送って家に帰ると、春花が大好物のじゃがいも粥を作って待ってくれていた。脱北をすると、残された家族は反動分子とみなされ、処刑される。「お前さ、俺と一緒に…」そこまで言いかけて言葉を飲み込んだ。祖父のことはどうするのだ、春花は年末に結婚を控えているじゃないか。いつの間にかお粥は冷めてしまっていた。

峠の向こう側で

 冬がくれば川が冷たくなり、脱北も難しくなる。白虎は必要最低限の荷物をポケットに詰め、いつも新義州に行く時とおなじ格好で家を出ようとした。靴紐を結んでいると、春花が肩を叩く。「お兄ちゃん、これ持って行って」。ハンカチに包まれたお札がポケットに入る。これは春花が結婚資金のために節約して貯めていたお金だ。白虎は目頭が熱くなったのを悟られないよう、「おう」とぶっきらぼうな返事をして家を出た。                 
 無事に美景と落ち合い、国境地帯まで移動した。監視兵の目をぬって、草むらからブローカーが向こう岸を指差す。        
「この川を越えたら、私たち、自由ね」。
 真夜中の鴨緑江を二人はお互いの体を結んだ綱をしっかり握り締めて泳いで渡る。何度か流されかけながら死ぬ思いで中国側につくと、白虎は綱をほどいて、まず美景を岸に押し上げた。
「先に草むらをまっすぐ走るんだ、警備兵に見つからないように」。
 美景は死に物狂いで走った。やっとの思いで草むらを抜け、振り返ったが、いつまで待っても川辺のススキは静寂を保っていた。        
 それから幾度か季節は巡り、北朝鮮の国際的孤立はさらに深まった。白虎はその後、労働や党の活動に励んだ。時々、工場で化粧品のサンプルを手にするとふといつかのことを思い出す。
 ある日、白虎は野外市場で中国から密輸した韓国番組のUSBを購入した。真面目になったとはいえ、禁止されている韓国の番組を内緒で見るのはやめられない。
 脱北者特集の歌番組のトリで最近人気だという歌手が登場し、マイクを握る。聞き覚えのある澄んだ声。まちがいない、美景である。
--アリラン アリラン アラリヨ アリラン峠を 越えて行く 
 私を捨てて行く 愛しの君は 十里も行かずに 足が痛む  


この物語は、松岡正剛先生の編集学校 破コースのお題で、
映画のストーリーを翻案して物語を書くという試みをした際の作品です。
課題映画の「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」のストーリーを翻案しました。


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