社会人としての基礎

諸君、社会人とはなんぞや。

まぁそう言われたら、「金稼いでる人」という問いになると思う。

ごもっともである。社会人はほぼ例外なく金を稼いでいる。

社会に出る、ということは、働いて金を得る、ということと同義なんだろうなぁ、と思う。

そんな社会人には、基礎というものが存在する。

報連相だの約束を守るだの時間を守るだの、そういったことをそつなく当たり前のように、どのような状況でも守るよう善処し、守れなければ事前に報告をし、対処をする。

わからないことがあれば聞く、聞いて分からなければ、更に聞く。一切の疑問を廃した状態で、初めて理解したと言え、先に進むことができる。

現実、そんな丸くは収まらない。もとい、収まってない大人などいくらでもいる。

報告できない、連絡できない、相談できない、約束守れない、時間守れない、わからないことは聞けない、聞いて尚わからなければ自身の理解力のせいだと自身を無意識に罰しようとし、「アッ…ハィ…」とか言っちゃう。

いくらでもいる。そしてそれは環境によって左右されることもある。
人間関係、職場環境、労働条件、などでいくらでも人は変わる。

人に臆する、職場環境が恐怖政治、ベテランオンリー、労働環境が劣悪、など。

それらが関係なく「基礎」が出来るのだとすれば、それは紛れもなく「超ベテラン」だ。土台が強固ならば乗せるものも強い。通り越してもはやオートマタの類かもしれない。燃料さえあれば動く。

ただ、個人的には、数多の人類は「超ベテラン」ではないと考えている。
なぜなら人間はオートマタではない。燃料があってもスイッチ、ハンドル、レバーetc...
不確定要素がたんまりで、かつ脳というとてもナイーブな器官が存在する。外的要因は一切抜きに、ただ「基礎」をやりきる、というのは難しい。悟りの域だ。仕事の仙人と言ってもいいだろう。霞を食べ。悟る。

会社で「お前じゃ外に出ても地獄を味わうだけだ」と言われてなお転職し、別の会社ではのんびり健やかにやっている、という人をSNSやらなんやらでよく見る。

ただこれは、「転職してのんびり健やかにやれているからSNSで見かけられる」のであり、現実は転職先でも案の定合わずにのたれ病んでいく、ということもあったりする。生存バイアス。

おそらく、「基礎」が出来ている人間はのんびり健やかに出来るのだろう。「基礎」が正しく積めない、積まれない、積むことのできない人間は、一体如何にして生きればよいのか。

生きれるのだろうか。

迫りくる時間、数秒数分数時間数日数週間数カ月数年、と時が回れば心が潰れ、生に執着するか死から逃走したいのかもわからず、ただひたすらに、無意味なことを考え、過ごす日々を、ある程度嗜好めいた趣味を持ちつつ生きる日々を、情熱を持って生を謳歌する日々を、ありとあらゆる想像できる範囲の日々を生きれるのだろうか。

答えなどは当たり前に知らぬまま、社会人を経る。

この思考を続け、悩みながらも解の途中を結びつけ、ただ現世の人が定めたルールに則りながら生きるということが、社会人としての基礎、根幹部分ではないだろうか。

だとすれば、もう少し頭を使ってもいいのではないだろうか、人類。

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