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「新書バカ」:日本のノンフィクションの危うさとピケティの『21世紀の資本』

ニコラス・カーの新作、The Glass Cageを読み終えたところです。人間性を保ち、みんなが幸福になるには、どの程度の作業を機械に任せればいいのかをきちんと科学的に検証したノンフィクションです。最後にロバート・フロストの「草刈り」という詩を引用していてじーんときました。使いこなれた道具が自分の手足となるあの感覚、黙々と単純作業をしている時の集中力の心地よさは、曹洞宗が説くところの「只管打坐」にも通じるよなぁ、とか、アーミッシュの人たちは誰よりもテクノロジーが人間の生活をどう変えるか知っているんだろうなぁ、などと考えながら。

とまぁ、これは単なる私個人の感想なので、この本の内容についてはyomoyomoさんがもっとわかりやすいレビューを書いてくれています。

日本でも翻訳版が出たばかりだけど、タイトルが…『オートメーション・バカ』。前々作だかの『ネット・バカ』もひどかったけど、もうね…。こんなタイトルの本だったら、読んでないから。

今、仕事のひとつとして、日本のノンフィクションを英語圏でも出してもらおうと奔走しているんですが、箸にも棒にも引っかからない著作ばっかりで、めげています。

だいぶ前からあちこちで言っているのだけれど、日本の新書、もう、出すのも読むのも止めたほうがいいかと。お手軽に知識を得たい読者がいるから需要があると思ってるんでしょうけど、あれこそが日本のノンフィクションをダメにしているんじゃないかと。

いつから「ブーム」になったんでしょうね、あのフォーマット。岩波新書や講談社ブルーバックのことじゃないですよ。『バカの壁』が2003年刊行だから、もう10年以上もやってるんですね。どこの出版社も、毎月2冊みたいなデスマーチで、著者にとっても1カ月くらいで書き上げなくちゃならなくて、装丁デザインは決まっちゃってて工夫のしようがなく(あんなに大きい帯かけるんだったら意味ないじゃん、ってなのも多いですね)、印税率がヒト桁で、初版数もほとんどの本は数千部しか捌けなくて、あとは同じようなタイトルがずらっと書店に並んで黄ばんで行くんですよね。もうこれ以上、森を破壊するのは止めて、バックリストを全部500円のワンコイン電子書籍にしちまえばいいのに、って思います。

日本の出版業界だとノンフィクションといえばこういう薄っぺらい新書が当たり前になっちゃってるんで、私みたいなヨソ者が「やめれば〜」なんて言うのを聞くと腹が立つだろうし、そう思っていても自分の版元だけやめるわけにはいかないし、ってなところでしょうか。

そういう私も、何もわからないままに1冊書きましたが、もうあんなのはゴメン。あれを書いた時に3年くらい猶予とアドバンスをもらって「アメリカの書籍出版産業の仕組み」みたいなオーソドックスなタイトルで500ページぐらいの集大成を書いた方がよかったな。で、Eブックについて聞きたい人はまず、その本を読んで下さい、って対応する。

是非とも、2015年はどーんとボリュームのある翻訳書ノンフィクションがどんどん話題になって、お値段も張るけど、読まないで話についていけないのも悔しいし、図書館で借りようにもいつ回ってくるかわからない、ってことで、みんなが買わざるを得ない状況になって、どんどんヒットするといいなと思っています。ニコラス・カーの本だって、「コックピットに閉じ込められて:オートメーション化は人間を安全で幸せにできるか?」ってなタイトルの方が2376円出す価値があるかどうか判断できるというもの。

そういう意味で、ピケティの『21世紀の資本』が、このくだらん新書ブームにどーんとトドメを刺してくれることを願うばかりです。

もちろん、結論だけが知りたいのならば、ぶら下がりで出されている入門書の類を読むまでもなく、「r > g(経済成長率より資本収益率の方が大きい)」で済んでしまうわけですし、実生活での例なら、キャバ嬢だって「人生、チマチマ働くよりも資産家の男をつかまえたほうが勝ち」みたいなことぐらい、ピケティ読まなくてもわかっているわけです。この本を読んだからって格差がなくせるわけでもないし。

ピケティ本に限らず、英語圏で出ているノンフィクションの本は分厚くて、くどいものが多いです。でも読み応えがあって、ストーリー性もあって、例え著者の主張に賛成しかねるところはあっても、なぜそう思うのか、理解することができます。そして時代に関係なく「物語」として後々まで楽しめる本が多いです。

なんといっても本の作られ方が違いますから。こっちのノンフィクションは、今の時点で企画会議にかけられるものは、刊行が1〜2年後で、これから最低10年は需要があるトピックに限られます。今流行りのナンチャラ論とか、今月中に出せば話題が旬のうちに売れる、マスコミで露出度が高いナニガシさんにさらっと書いてもらって(っていうか、自分で書いてないだろ)「〜力」ってタイトルつければ注目される、みたいな内容のものは、本を作るのに値しないから、雑誌とかネットでやってよね、と却下されます。

その分、ノンフィクションを書こうという人は、普遍的かつ総合的なテーマで企画書を練り上げ、企画が通れば入稿する前にアドバンス(印税の前払い)がもらえるので、締め切りまでそれで食いつなぎ、手間ヒマをかけて取材やリサーチを重ね、少なくとも数年間を投じて一つのテーマに取り組めるわけです。

というわけで、ピケティの本がノンフィクションとして優れているのは、その結論が斬新だったからではなく、その結論に至るプロセスを懇切丁寧に書き上げているからです。だって、バブルの後、日本でも格差が広がっているなぁ、なんてことは本なんて読まなくてもみんな感じているでしょ。

『21世紀の資本』では、まず何をもってして「資本」と呼ぶのか、何十ページにも渡って説明していて、数字が出てくると眠くなる私の睡眠誘発剤として大いに役立ってくれました。

あるいは、r>gというのがいつの時代にも当てはまるのか、納税の長者番付なんてなかった時代に、資産家がどれだけお金を持っていて、労働者が一生働いてどのぐらい稼げるのかを、ディケンズやユーゴーの古典を読み込んでまで調べあげているわけです。

個人的には数字より、そっちの方が楽しめるんで、オースティンの『マンスフィールド・パーク』でファニーの叔父さんがずっと海外に行っていたのはそういうことだったのかとか、バルザックの『ゴリオ爺さん』でヴォルトランがまだ真面目でうぶなラスティニャックに、医学校出て医者になって一生働いてもこのくらいだけど、お金持ちのお嬢さんと結婚すれば云々ってそういえばくどくど説明してたよなぁ、とか、『高慢と偏見』でベネット夫人が、ミスター・ダーシーは年間1万ポンドですって!って驚くのが今だといくらだとか、そんなディテールばかりが記憶に残ってるんですがw

でもこういうディテールがあるから、それを踏まえた上での議論が机上の空論とならないわけだし、その結論に至るプロセスが全部明かされていて、そこまでの積み重ねが説得力になっていると思うんですよね。そして読者もまた、そのプロセスをいっしょに辿っていくから、700ページもふむふむと読めるんだと思うわけです。

これが新書だと、タイトルでまず煽って、自分が主張したい結論を最初の章で言っちゃって、それに迎合するデータや事例だけをいくつかあげて、ね、やっぱりそうでしょ?で200ページ終わり。こんなことを野放しにしてノンフィクションとか呼んでしまうから、世の中に江戸しぐさやEM菌みたいな嘘っぱちがまかり通ってしまうんじゃないの? いくら新書読んでも、本当にそうなのかなぁ?ぐらいの読後感しか残らないんじゃないの? 『殉愛』みたいな本に至っては「ノンフィクション」と呼ぶこと自体、烏滸がましいんじゃねーの?ってな。

ということもあって、年末から日本で始まったこのピケティ祭り、傍から「読めや、買えや」と、やんやと囃し立ててまいりますw

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