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自分の肉体が自分のものではなく、白人社会の資源なのだというタナハシ・コーツ

キューバとの国交回復、イランの核設備縮小合意などの外交政策で忙しい夏を過ごしていたオバマ大統領がようやく短い夏休みを取るということで、ストリーミングで聴くお気に入りの曲リストといっしょに、「休みの間に読みたい本」が発表された。(この辺がいかにもアメリカらしい。)その中に、ちょうど私も読みかけていた本が1冊あったので紹介する。

日本では全く無名だろうが、雑誌やネットにコラムを書き続けているタナハシ・コーツ。Ta-Nehisiなんて名前、アメリカでも初めて聞いたけどね。そういえば『ビレッジ・ボイス』紙で音楽レビュー書いてたかも、ぐらいの記憶しかないけれど、「アトランティック」紙でreparation、つまり「アメリカ政府は今からでも黒人市民に奴隷としての過去を清算し、賠償金を払え」という意見を支持するコラムはかなり話題になった。

そのコーツの2冊めの本は、ひとりの黒人男性としてティーンエイジャーの息子サマーリ君に向けて書いた手記という形をとっているが、おりしも、昨年ミズーリ州ファーガソンで、背後からマイケル・ブラウンを撃ち殺した警官が、今年に入って不起訴となったことを発端にデモが暴動にエスカレートし、同様の事件がNY市のスタッテンアイランドから、メリーランド州バルチモアなどでも起きているので、日本でも少しは報道されていただろう。

この夏ちょくちょく全米で発生したんで、珍しくもなくなった「丸腰で、多くの場合何も悪いことをしていない黒人男性を白人警官が殺してもなんの罪に問われない」現象なのだが、実態は、最近この手の事件が増えたわけではなく、ネット時代になって現場に居合わせた市民がスマホでたまたまビデオを撮っていた確率が高まったから、警官側の調書や証言と違っていることが明るみに出るようになっただけということだ。何も昨日今日始まったことではない。昔から「よくある話」なのだ。

さすがに、白人警官が当たり前のように、パトロールのついでに黒人を呼び止めて暴力を振るったり、撃ち殺したりする衝撃映像が出回って「無罪」や「不起訴」だと、オバマ大統領も声明を出さないわけには行かず、なんどか記者会見も開かれた。かといってあからさまに警察を非難すると、ネオナチみたいな白人至上主義者団体や、お茶会系の保守派団体の神経を逆なでするしで、慎重に言葉を選ぶオバマ大統領だったが、滾るような怒りを押し殺している様子が見て取れるようで気の毒になったくらいだ。

私もアメリカでは日本人女性として「いちおう」マイノリティーという立場であり、非言語化された有形無形の差別的な行為を体験したことがないとは言わないが、いつどこで言われもない難癖をつけて警察に呼び止められ、犯罪歴があろうがなかろうが、抵抗してもしなくても、いつでも殺されてしまう恐怖を常に感じながら生きているという感覚は私には想像もつかない。それをコーツは「黒人男性の肉体は、アメリカの歴史を支えてきた“資源”であり、今も一方的に支配されたままなのだ」と表現する。奴隷としてプランテーションの綿花を摘もうが、大学アメフトチームの選手として活躍しようが、黒人の肉体は常に白人にとって利用される「資源」であり、自分のものではないことを自覚せざるをえないのだと。

彼は物心ついた頃から、ベトナム帰還兵であり、ブラックパンサー党員だった父親に虐待に近いせっかんを受けながらそのことを叩きこまれ、目に見えない壁を作って自らの身を守って生きていたと書いている。その乖離を「Between the World and Me」というタイトルで表している。今や全米一、治安が悪いバルチモア、しかもかれが少年時代を過ごした90年代は「クラック(中毒性が高く、値段が安いコカイン化合物)」全盛期。そのあたりの詳しいことをデビュー作「The Beautiful Struggle(美しき闘い)」に書いている。

この本では、ハワード大学での日々と、息子が生まれて父親となり、その子どもがティーンエイジャーになり、ファーガソンでの一連の事件に胸を痛める若者となった彼に対し、自分が何を言ってやれるのかが主題となっている。

彼が選んだ「ハワード大学」、日本では全く知られていないだろう。生徒の9割以上が黒人、公民権運動の立役者で最高裁判所司法官のサーグッド・マーシャルからノーベル文学賞受賞者トニ・モリソン、ロバータ・フラックから、デイビッド・ディンキンズNY市長、オペラ歌手のジェシー・ノーマンら錚々たる卒業生が各界で活躍している。「ブラック・ハーバード」というニックネームもあるが、タナハシ・コーツはここを少しでも既存の米国史や社会に疑問をもつ黒人学生にとっての「メッカ」と呼んでいる。

彼はハワード大学に来て初めて、自分が何者であるかという問題と正面から向き合い、自分と同じような気持ちを抱える様々なトーンの黒い肌の若者が集まり、マルコムXぐらいしか知らなかった自分がゾクゾクするような高揚感を与えてくれる先導者の本が集まった図書館で得難い経験をしたと語る。

恋をし、仲間を作り、地元紙に音楽レビューを書くようになって、ライターにならんと中途退学してニューヨークに上京してきて、結婚し、男の子が生まれる。そのことによって、「息子を守る」ためにこの肉体を捧げる覚悟ができたと語る。

そんな中、婚約者に会いに行くために車を運転していた1人の黒人青年が撃たれた小さな囲み記事のニュースを見かける。続報で詳細がわかってくると、それが同じハワード大学出身のプリンス・ジョーンズだったことを知る。裕福な医者の家庭に生まれ、いつも「黒人は自分一人だけ」という環境の一流私立校に通い、望めばどんなアイビー・リーグ校に入れたのに敢えてハワード大学を選び、生徒にも人気のあった「プリンス」。不器用な自分と違って、かつて自分が憧れの目を向けてみていたこともあるプリンスがなぜ殺されなければいけなかったのか、ジャーナリストであるコーツは居ても立ってもいられなくなって、プリンスの母親を訪ねる。

「苦労して、心配して、いつも一番よかれと思うことをして大事に育ててきたのよ。それが一瞬の差別行為ですべて無になってしまった」とその母親は落胆した様子でコーツの質問に答える。

帰路についた彼が考えたのは、やはり自分の息子のことだった。どんなに肉体を鍛え、慎重に行動し、強い気持ちを持っても、このアメリカという国では明日の命をも知れぬのが黒人であることのさだめなのかと。ではだったら自分は息子に何が言ってやれるのだろうかと。

彼が出した結論は、すべてが次の瞬間、奪われるほど儚いものであってもそれを受け入れるしかない、と。それでも自分の人生をせいいっぱい謳歌しろと、自分のためにもがけ、と。自分に言ってやれるのはこれしかない、と。

180ページに満たない短いエッセイなのだが、ちょっとハードルは高いかも。言葉の問題じゃなくて、人種差別問題を肌感覚でわかる人じゃないとスッと入ってこない気がする。トニ・モリソンは彼をして「ジェームズ・ボールドウィンの再来」とこの本を絶賛したが、ハーバード大にいた時にローレンス・サマーズ学長とケンカして飛び出した名物教授、コーネル・ウェスト先生は「なに言っちゃってんの?ボールドウィンは時の権力者に物申して歴史を変えたんだぜ。コーツは小賢しいジャーナリストが冗長なこと言ってるだけで、オバマ大統領批判だって避けてるじゃないか」とまぁ、フェースブックでけちょんけちょんに書いてたのが面白かったけど。話がオバマ大統領に戻ったところで、お後がよろしいようで。

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