１

　
　私が彼女と最初に対面したのは、去年の夏の終わりだった。彼女の働いている出版社から依頼を受けて、私は連載小説を書くことになったのだ。それは文芸誌でなく、婦人向けの生活情報誌だったが、私はそれを了承した。なぜなら、年始にひっそりと刊行された短編集の売れ行きが悪いこともあったし――生活に困窮しているというわけでは勿論なかったのだが、近いうち、海外かどこか遠いところへ引っ越したいと思っていた私にとって、出版社から提示された報酬は魅力的だった。そして、普段なら私の本に見向きもしないであろう、しかし私と年齢のさほど変わらない人々の前に作品を晒すというスリルも面白いと思ったからだった。
　時間より少し早く着いたので、待ち合わせに設定されていたイタリアンレストランの道路に面したテラス席で、煙草を吸いながら、ちびちびと舌の焼け千切れるような温度のコーヒーを啜った。昼を少し過ぎていたが、客足は不思議にも全く衰えることがない。ついさきほども、つばの大きな白い帽子を目深に被った、ベビーカーを押した若い母親が、赤い運動靴の踵を大きくすりながら私の脇を通って店内に入って行ったところだった。店は活気に満ちていた。肌が湿るほどの熱気と笑顔でごったがえしていた。背の高いハンサムなウェイターは、両手に大きな皿を持って、席と席の間を大道芸人のようにくるくると回転しながら、まだ湯気を立てているぬらぬらとしたトマトと茄子のスパゲッティや、健康な人間の血を丸ごと抜いて振りかけたかのように真っ赤なマルゲリータ・ピザを運んだ。私は次々に額に浮いてくる汗の粒を手の甲で拭いながら、アイスコーヒーにすればよかったと思った。暑かった。うだるような暑さだった。太陽は今年最後の猛威をふるい、周りにそびえたつビルの数々や人間を吐き出し続ける煉瓦造りの駅舎をじりじりと無言で圧迫し、震えあがらせているように思えた。コンクリートは熱されて黒光りし、信号待ち、目の前の道路に止まっている赤い車や、白い軽トラックの輪郭は、埃で溢れてやや黄味がかって見える空気と混じりあってぼやけていた。互いに干渉しあい、犯しあって、ゆらゆらと波打ち、溶けかけているように思えた。時々、忘れていたかのように風が生温い手で私の頭の先を撫で、テラス席を覆う青いシートが頼りなくぱたぱたと揺れた。
「先生」
　波の間から零れ見える飛沫のような声が耳をかすめた。いつの間にか首を重く傾げて微睡んでいた私は、目の前に現れた彼女に向かって急いではにかんだ笑みを作り、指の中で煙を立ち上らせていた煙草を灰皿に押しつけた。
「すいません、よく寝ていなかったものですから……初めまして」
　私は木の椅子から立ち上がり頭を下げた。いちおう、著名ということになっている作家が、とは言っても人として当たり前のことなのだが、いそいそとお辞儀をしたことに対する躊躇いなのか、彼女は慌てたように涼し気な美しい黄緑のサンダルを少しよろめかせ、急いで私より深く頭を下げた。髪から香ばしい煙草の匂いがした。

memo

永遠に完結することのないであろう情事、おそらく、この生が尽きるまで湧き続けるほど強烈で原始的な欲望。彼女と、ひとつになりたい。そしてそのまま、藻屑になれたら。日常または想像の中でいくつかの条件が揃うと、わたくしは自ら死の淵へ足を踏み出そうと実行することがある。けれどもそれは稀なことだ。よほどのことだ。しかし彼女と一緒にいると、わたくしは常にその、心臓に高い負担をかける強力な、残酷で甘美な媚薬のような思いつきの虜になってしまう。また、こうも言えるだろう。彼女と一緒にいると、首を思いきり絞められているかのようだ。心の乾いた、つまらない無感動な人間が、そのときだけ、強烈な生を体感しているのだ。
わたくしは自分がその死の欲求に取り憑かれているとき、ふと彼女も死んだらいいのに、と思う。彼女の首に手をかけ、息が途絶えるその瞬間までのあいだ、わたくしはより一層、激烈に、生を体感し続けるだろう。ひとを殺したいと思ったのは人生で二度目のことだ。

彼女が死んでから少しは、まだわたくしは生を感じているだろう。しかし時間が過ぎて、彼女の死という物語はじょじょに薄まっていく。そうすると、ようやくわたくしは、自殺の条件となる、存在の意味の喪失をぼんやりと感じ、実行に移すことができるだろう。利己的で倫理に反した考えだ。しかし確実に、彼女の死はその口実となる。

浅はかなポエムが続いてしまうが、これは日記なので仕方ない。わたくし以外の人間は見ることができないのだから良いだろう。
悲しいかな今の段階では、わたくしも彼女も、人生は生きるに値しないと考えている。この世界に、生きるに値するか？　いいえ、しない。と考えている。自分の未熟さゆえに、価値を見出すことができずにいる。

　アルコール
　エフェドリン
　ニコチン

これ以外に、快楽物質を享受する方法を見出せないのだ。これだけの時間生きてきたというのに、みっともないことだ。これらはすべて安易なもので、獲得するまでに複雑な工程を必要としない。

孤独な魂に出会うと、わたくしはいつも無謀にもこう思う。ひとつになりたい。あなたは、わたくしのひび割れた魂の片方なのだ。だからもう一度統合したい。すなわち、どうかあなたの中に逃げることを許してください。あなたの中に消え去ることを許してください。というように。だがしかし、それはいつも徒労にも至らぬまま終焉を迎える。不毛な願いだからだ。
なぜなら、孤独なわたくしたちの魂は、そもそも統合するにはあまりにひび割れすぎて、奇妙な形にねじれて凝り固まってしまっている。たとえ機会に恵まれて、擦れあったり、ぶつかったりしても、すぐに嫌味ったらしい鈍い音を立てる。そして、わたくしたちは出会うよりもっと醜くなり、すべてが過ぎ去ってしまったあと、元に戻れないことを後悔するのみである。まざまざと魂に刻まれてしまった相手の痕跡に目をやっては、血の涙を流す。それがわかっているからこそ、わたくしは与えられた偶然を必然に変えることはできない。

わたくしには、彼女が誰も観客のいない劇場で、たったひとりで喜劇と題された血まみれの惨劇を踊っているようにみえる。つまり、単純に言えばわたくしには、彼女が、引き裂かれているようにみえる。もっと言うと、彼女の内にある孤立無援の島の中で、確固たるふたつのものが鬩ぎあっているようにみえる。そのふたつのものは、必ずどちらかを選ぶように、と彼女に命令している。当事者である彼女は、おのれを左右から、もしくは前後から、喰い千切られて、身動きすることができない。惚けたようになって、永遠に立ち止まっているかのようだ。彼女には力がない。彼女はひとつを選ぶことができない。

だからこそ、さらに彼女の中で、日常と虚構とは争う。しかし可哀想なことに、彼女にはそれらの間に橋渡しをする構築者の素質はまるでないのだ。そんなふうだというのに、彼女の子宮には尽きることのない物語の素材と断片とが——彼または彼女、形になる前の、捏ねものの状態のものが数えきれない程——潰れた鼻で荒い息をする幾人もの未熟児たち。汗と脂と泥とが入り混じった浮浪者のような匂いを放ち続ける、夢見る狂人の欠片。内臓を掻き荒らす一匹の巨大な臭くて黒い毒虫。描こうとしては失敗した痕跡のある、ぼかされたデッサン。思想の萌芽、今まで、彼女の中で蓄えられてきた全てが――救いを求めて唸り声を上げている。

わたくしはそれを見抜いている。そういったものは、ひとめでわかるものだ。彼女の身体から無数に、歪に突き出た鈍色の冷たい金属、素材と断片とは今、自らを固くして彼女の外へと飛び出そうとしている。しかしそれらは外気に触れた瞬間に絶命するだろう。先ほども述べた通り、彼女には命を与える力がないのだ。したがって、彼女はただの病人なのだ。

わたくしだけが彼女を救えるかもしれないというエゴイスティックな思い。そして彼女も本当はそれを望んでいるはずだという無垢な願い。なぜならば、わたくしは彼女のことを誰よりも知っている。愛している。あえて言おう。愛しているのだ。これは試みのひとつなのだ。わたくしは反逆し続けるだろう、わたくしから彼女を奪おうとするものに対して。彼女が泣き叫ぼうが、失神しようが、色白で肉のない脚を押し広げて、強引な情事を繰り返すだろう。自らの惨めな終わりのない欲望のために彼女を翻弄し続けるだろう
2014.9.27　

「冴木美和子といいます、よろしく」
　私は彼女に手を伸ばした。汗まみれの私の手に、ちくりと刺すような感覚が走った。彼女の肉の薄い掌は氷のように冷たく、まるでこの子には血が通っていないのではないかと思われるほどだった。
「わあ、あの、先生の手、すごく温かいですね！」
　彼女は高い声で、そして予期せぬタイミングで飴玉をもらった子どものようにあどけない振る舞いで驚いてみせてはいたのだけれども、私にはその言葉尻が小さく震えたように聞こえた。このひとは何かいつも白けているのだな、と私は思った。なぜなら、その声全体に脈打つ彼女の精神の陰鬱さと不気味な色味を察知したからだ。恥じている闇を必死に覆い隠そうとしているようだった。
　赤だった信号が青に変わって、虚ろな窪んだ目をした人々が横断歩道をまた歩き出すまで彼女は私の手を離さなかった。
　そのため、私は髪の毛をかきあげるという口実の元にやんわりと手を振り払いながら、では打ち合わせをはじめましょうか、と早口で言う。
　私は彼女に座るように促した。そして側を通りかかったウェイターにアイスコーヒーを注文した。
「すいません、ホットコーヒーで」
　彼女はウェイターに言い直した。
　そしてウェイターが店の奥へ行ったあと、私の顔を見て、整えるのを失敗したのか濃淡がばらばらで左右の形が違う眉を下げて気まずそうに微笑んだ。
「先生と、同じものをと思って」
　私は苛々しはじめた。どちらでもいい。
「お会いできて、本当に……。何て言ったらいいか。新しく出た短編集、読みました。わたし、先生の大ファンなんです」
　もともと彼女はひとの目を見て話すことが得意ではないのだろう。一瞬私を覗き込んで、また怯えているかのように目を伏せる。
「高校時代に先生の処女作を読んで、それがきっかけで、作家を目指したり、やめたりして」
「それはどうもありがとう。……ところでごめんなさい、あなたのお名前を教えてもらえますか？　何て呼べばいいかわからないから」
　できるだけ丁寧な言葉遣いをして苛立ちを森の中にサッと隠した。
「あっ」
　彼女は眉をしかめた。
「すみません！　舞い上がってしまって。申し遅れました、この度先生の担当を務めさせていただきます、光出版の倉木陸と申します。今日は、本当に無理を言って、遠いところから足を運んでいただいて……」
　名刺を手渡された後、彼女がはりきって、メールか電話のやりとりで済むのではないかと思われるようなおおまかな決めごとや締め切りについて話しているのを、私は適当に相槌を打って、ぼんやりと聞いていた。しかし一度会っておくというのは重要なことである。こちらは仕事を頂いている立場だし、初回の打ち合わせには、今後に関わる、双方間の微妙な権力関係を設定する意味合いもあるのだから。
　私は明らかなカルシウム不足で柔らかく、指で千切れるような脆さの灰色じみた爪をむいたり、目の前にある彼女の身体にあるホクロの数を数えたりしながら暇を潰すことにした。私よりおそらく十は若いだろう、それなのに目の下には、色のない虚無が溢れ返るほど詰め込まれた穴のような酷いくまが占拠している。彼女のしている粗雑な化粧は、まるでその負の側面を隠せていなかった。下地の肌色のクリームがのばされずに目尻に固まっている。しかしもともとの彼女の肌は、底まで見える南国の海のように水気のある、透き通ってやや青みがかった白さだった。美しい。化粧などしなくてもいいのに。
　ホクロを数えていると、鼻の隣りの、私と丁度反対のところに点のようなホクロがあるのに気づいた。そして次に、肩の下まで垂らされた黒髪、少し痛々しいほど浮き出た鎖骨が見える地味な丸襟の紺のワンピースの隙間から、何故か太陽光の加減で金剛石を散りばめたかのようにうるさく光る首筋に、縦に三つ並んだ星座のようなホクロを発見したのだった。私は目を細めてじっとそのホクロを見ていた……今すぐ彼女の服を引き剥がしたらどんなようすだろう、隅々まで、破廉恥な場所に至るまで。黒ずんだ臍の中や、陰部も勿論。そうやって、全身に点在しているホクロを覗き込んで数えたい。彼女の、手際が悪く、どこか鈍臭そうな性格は全く気に入らないが、容姿に関してはどこか惹かれるものがあった。とても個性的な顔立ちだ、遠いむかし私がまだ小さい頃、どこかで出会ったことのあるような、強烈な既視感。それにくわえて緩い目尻が放つ、こちらが思わず目を離すことができなくなるようなあどけなさと淫乱の交錯、線のように通った鼻筋。芸術的ともいえるほどに色味を変える日差しの薔薇色の薄いヴェールの上から透かしてみると皮膚から少し突き出た三つのホクロは鈍色に輝いて見えた。私はそれを彼女の鮮烈な情緒と隠された論理が結合した小宇宙の切れ端だと思った。
「先生？」
「……ああ、はい」
　椅子の中で崩れていた私は座り直した。癖である貧乏揺すりはいつのまにか止まっていた。
「これで以上になります」
「どうもありがとう」
「またご質問等あれば、電話なり、メールなり、していただければ」
「わかりました。じゃあ……私は、これで」
「小説、楽しみにしています、先生。あの、もちろんここの会計は経費で落ちるので……」
「ありがとう、それじゃあ、よろしくね、倉木さん」
　私が席を立ち、駅の方へ歩き出そうと彼女に背を向けた瞬間、ライターのカチッという音と、彼女の髪から漂って来た煙草の匂いが緩やかに飛んできた。この匂いは嫌いではなかった。いつもの、ほんの一瞬でも誰かと接した後襲ってくる猛烈な虚しさも、時間を喰い千切られた、という怒りも、この日、彼女に対してはあまり感じなかった。後味は悪くない。最初はどうなることかと思われたが、意外にも私は美しいものを見たのだ。
　普段私は、自炊もせず、宅配業者に食料の全てを任せているし、今日の夕飯も届く予定だ。しかし私は何故か駅の近くにあるデパートで買い物をして帰ろうと思い、数年ぶりかの、少し晴れやかな気持ちで足を進める。

memo

先生はバイセクシャルですか、というばかな質問をしてくるインタビューアーがいた。それはどういう意味なの、とわたくしは尋ねる。どこからか変な噂を聞きつけてきて槍玉にあげたいのだろうかと思う。だからこそ素直に、わたしはなんにでも欲望を感じるわといってやる。排他的で直接的な欲望をね。明らかに新米の相手に対して、わたくしはなぜこんなにも必死に伝えたいのだろうかとじゃっかんの疑問を持ちながら。

セクシャルなことを聞き出したいのでしょう。だとしても、きれいごとじゃなくわたしは純粋に何ものにだって惹かれる。肉体的に結びつきたいか、というあなたたちの下品な興味にはこうお答えしましょう。あるひとつのワインの瓶にだって、または油の浮いた食べかすが残ったお椀にも、例えば電柱にだって、兎にだって、欲望を感じるわ。実際わたしは膣の中にビール瓶を突っ込んだことだってあるのですから！　あなたたちは奇行だと言うでしょうけど、袋いっぱいのゴミに体を埋めたいときだってある。要するに、集中力と想像力の問題よ。向き合えば、何ものにだって欲望は芽生えるわ。それがたとえわたしだけのものであっても、他のだれのものであっても。タブーであっても、タブーでなくても。

その欲望はどのような割合なのですか。とそのインタビューアーは再び口を開いた。あらゆるものに芽生えたとして、例えば、その中でも、男はどれぐらいとか、女のほうが多いとか、そういう意味での割合です。

そのクエスチョンは今の話を真摯に聞いてもらえたとは到底思えないのだけれど、それに関して言えば、考えたこともないし、さまざまとしか言いようがないわ。ねえ、その、割合を聞くことに一体なんの意味があるの？　女としたいときだって、男としたいときだって、物質としたいときだってあるわよ。電車に乗っていて、突然隣の知らないひとの耳たぶを舐めたくなるときだって。それは完全にセクシャルな欲望よ、世間では変態ということになるでしょうね。たまには、その欲望が重なり合うときだってある。お願いだから、変な名前や枠をつけてひとを裁かないでちょうだい。色物として騒がれて、ピエロとしてしか生きられないようなつまらない時代はもう終わったのよ。セクシャルは、ほんとうは人生を流れる時間とともに、状況によって変化していくのよ。そして、それでいいのよ。
2014.10.2

　デパートの入り口の前に立つと動悸がした。急に自分がひどく場違いなところにやってきたように思えて、どうしていいかわからなくなった。住んでいたところから引きずり出されてきて博物館に飾られた未開人のような気持ちだ。爽快な気分はすぐに飛び去ってしまった。なぜ来たのだろう。だって、今すぐ必要なものがあるわけではない。とりたてて欲しいものがあるわけではない。ただ、私は、たまにはこういうのだっていいと思ったのだ、なんとなく雰囲気で都会をぶらりとする、ただそれだけなのに、なぜいつも自分の気分はこうも揺れ動いてしまうのだろう。
　夏休みもそろそろ終わりを迎えるからか、店内に親子連れが多いのがガラス越しに見えた。すぐに帰ろうとしたが悔しい気持ちが意地を張らせた。
　私は意を決し、心臓に悪いほど露骨な冷気が蔓延した回転扉の近く、両手を振り上げてはしゃいでいた小猿たちの波を、オールのように固く強ばらせた手でかきわけた。入り口付近の、婦人小物を売っているスペースの脇には、「特価価格」の張り紙とともに自由研究の工作キットが大量に積まれたラックが設置してあった。
　辛うじて入れるスペースしか残っていないだろう、ぎちぎちに人が詰まった窮屈なエレベータまで、私は大股で真っすぐ歩いていって、閉まる直前、無理矢理身体を捩じ込ませた。乗り合わせた人々の熱気で奥のガラスは白く霞んでいる、乾いた汗がうなじを垂れ落ちる。ガウン、と少し唸ったあと、エレベーターは重苦しく上昇しはじめる。
　七階の婦人服売り場で降りてみることにした。私の持っている服はもうどれも、時代遅れだったから。しかし、私はなぜか奇妙なほど心地よい匂いを放つブランド店などには見向きもせずに、そそくさと障害者用トイレに入り、乱暴に扉を閉めた。そして、ジーンズと、べたついた黄褐色のおりものだらけのパンツを降ろし、股を広げ、便座に深く座り込む。私は天井に目をやり、筋肉が弛緩し、膀胱から尿が迸る音を聞いていた。放尿が終わっても、同じ姿勢、しばらく無心のまま。
　真正面に大きな鏡があった。息をのんだ。ゴクリと喉の強い音が聞こえる。八年間海辺にあるぼろ家で、たったひとりで。小さなノートパソコンにびっちり打ち込まれた文字だけが社会と繋がる手段であった。そうやって昼も夜もお構いなく、静かな発狂を繰り返しながら暮らしてきた年月の生んだ、自らの美的なものの喪失がまざまざと視覚に迫ってきたのだった。腐った水たまりのような私の暮らしは、ついに俗から離れ、淡い光を帯びた神聖なものにはならなかった。精神が自然と完全に溶け合い、奇跡の融合を起こしたりするように目映く、ましてや毎日が骨髄を震わす感動と共にあるものであるわけがなかった。私の精神は低俗だったからだ。何を期待していたのだろう、あらゆる関係を結ぶことに長けていなかった劣等人種が森にただ逃げ込んだだけのことだった。
　彼女と会う予定がなければ、昨日も風呂には入れなかっただろう。肌に沈殿し、付着した黒茶色のぬるい粘りと、脂まみれのべたついた髪、爪の垢と目が痛くなってくるほどの、全ての毛穴から漂ってくる異様な獣じみた匂い。これが過剰な表現でないのに私が驚いてしまうほどだ。それにくわえ、彼女の強い希望とこの暮らしへの確固たる嫌気が、今日の面会をようやく実現させたのだった。
　いつまでも大人になれなかった私は、空の酒瓶、カン、開きっぱなしのノートブックと万年筆やインクの入っていたプラスチックケースが散らばった埃臭い地下室で爪を噛み、いじけながら何かを待っていた、惨めな何者かが罠にかかるのを。いやらしい言い方をすると、助けてくれるのを待っていた、しかし誰もやってこなかった。当たり前だ。哀れな私をさらいにはこなかった。当たり前ではないか。誰がくるというのだ。誰も私とは個人的な付き合いがないのに。
　インタビューは、前所属していた文学会の圧力がかかったいくつかの雑誌のみ受け、打ち合わせも電話かメールで済ませてきた私と接触した人間は、週に二度やってくる食料配達員と、二ヶ月に一度来てもらう出張美容師、それに家の玄関から続いている、蒼黒く小さい庭を通り抜けた先、石段を降りたところにひっそり佇む煙草屋の惚けた老人だけだった。もちろん、私は彼らと最低限のこと以外、一言も口をきかなかった。きけなかったのだ。一度喋り出すと、濁流のように卑しく醜い救済への欲望が溢れ出し、もう二度と私は、自分ですら持て余している自分についての問題を一人で解決することができなくなるかと恐れたから。
　私は腕を伸ばし、ジーンズの後ろポケットに入っている財布を取り出して、すぐに振りたくり中身を全て股の間に落とした。硬貨が私の尿や便器と触れ合ってぴちゃぴちゃと小人のたわむれのような音を立てた。何枚かの万札が濁った水にゆらりと浮いたのを確認してから身体を捩らせ、ぐいと洗浄ハンドルをひねった。札束は惨めに背骨を折られながら硬貨と共に瞬く間に消え去っていく。
　何故だか私は恍惚としていた。しかしトイレはゴッという鈍い音を立ててどん詰まり、私を生暖かな感傷の海からすくいあげ、ぴたりと正気を武装させた。みるみるうちに水位は上がってゆき、誰のともしれない千切れた汚物や濃い尿が茶色い渦となって便器から吹きこぼれんばかりになった。地獄絵図のようになった便器を見てパニックになった私は後ずさって、急いでジーンズを引きあげ、トイレから逃げ出した。
　一階まで降りてくると、外はつんざくような雷雨だった。エレベーターを使わず階段を駆けおりて息の切れた私は思わず苦笑した、銀行を使わず金銭を全て家に置いている私は今、一円たりとも持っていなかった。電車にもタクシーにも乗れない、徒歩ではとても遠すぎて帰れるわけがない。傘もない。私は困り果てて乳色の大理石の柱にだらしなくもたれかかった。自分の馬鹿さ加減に呆れて。
「倉木さん、冴木です。あのう、先程は、どうも……」

週刊woman
●実母の事故死に関わったと自ら裁判で証言する女子中学生の狂気を、技巧的かつ瑞々しく描いた『渚』で第○回芥川賞を受賞した冴木実和子（四十三才）。当時、十七才での最年少受賞であったが、その後も彼女の勢いは留まることなく、現在も文壇で華々しい活躍を続けている。常に日本の文芸の先端を走ってきた彼女であるが、最近彼女の”奇行”が度々目撃されている。九年前ではあるが、新宿歌舞伎町のレズビアン風俗で風俗嬢に正規メニューでないスカトロプレイを強要した話は有名である。さらに、神奈川県葉山町の自宅付近にて、泥酔状態でトラックの前に飛び込もうとしたニュースは読者の記憶にも新しいだろう。そのセクシャリティーも不明であり、私生活に関しても謎の多い彼女だが、精神疾患を患い、薬に溺れているという噂もある。孤独な鬼才が放つ作品群はいくども映画化され、カンヌ映画祭への出品も二度果たした。さらに脚本を提供した『森の中の女たち』は、グランプリを受賞したほどである。しかし、その人格の不安定さが社会に放つ衝撃は計り知れない。想像力で賄っていた狂気が法の外に出ないことを祈るばかりである。

続

©Makino Kuzuha

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