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ヘルソン解放の画像を見てウクライナ語を学んでよかったと泣いた話

2022 年 11 月 11 日,長らくロシア軍に占領されていたヘルソン市(ウクライナ南部ヘルソン州の州都)についにウクライナ軍が入った。

ネットサーフィンしていて,以下の記事の 1 枚目の写真が目に飛び込んできた(写真は別サイトで見たのだが,その引用元を探してたどり着いた。何のサイトかは知らない)。

上記リンクのサムネール画像にもなっている,市民が兵士のうしろでプラカードを掲げているらしき写真だ。

この画像のプラカードに書いてある言葉が読みたい。モーレツに読みたい。
語学に向いていないポンコツ頭の中年が無理してウクライナ語を勉強してるんだ。読みたいぞ。

結果,どうにか読めたので,その格闘の跡を記す。
文の内容のほかにも興味深い点があったので,それも記録しておく。筆者は手書き文字に興味があるのでそういう観点も入れて。

1 行目の「ヘルソン」はすぐ分かった

プラカード全体が大文字だけで書かれている。
やはりこういうときは大文字だね(知らんけど)。

1 行目が「ヘルソン」(ХЕРСОН)であることはすぐに分かった。
この綴りは何度も目にしているから。

ただ,「С」の文字を四角く「匚」のように書いているのは大変興味深い。
こういう書き方をすることもあるのだろうか。
このプラカードの文字は,一種のレタリングである。つまり,太い筆記具でストロークで書いたのではなく,塗るようにして描いているはずだ。だから,ふだん鉛筆やペンで書くのとは違って,デザインとして四角くしたのかもしれない。
この写真一枚ではそれ以上のことは分からない。

それから,文字の形についてはもう一点,「Х」の字がよくよく見ると二つの線分の交差になっていないことに注目したい。交差として見るとズレているのだ。
」と「」を組み合わせて書いたような形になっている。
興味深いが,それ以上のことは何も言えない。

2 行目「ЧЕКАВ」は何?

2 行目は「ЧЕКАВ」と書いてある。
チェカウ? ウクライナ語は綴りから発音を知るのがわりと易しい言語なのがありがたい。
が,知らない単語だ。

ウクライナ語は活用や格変化があるので「чекав」という形で辞書などに載っているとは限らない。というか,まず辞書形ではなさそうと思った。
とはいえ,変化するのはだいたい語末なので,「чек」のあたりまでで辞書が引ければ正解に辿り着く可能性が高い。

Wiktionary を引く

ウクライナ語の辞書は持っていないが,Wiktionary を引いてみよう。
ここね:

Wiktionary には日本語版もあるが,ウクライナ語なんかを調べると載ってない語が多すぎるので上記英語版をいつも使っている。

Wiktionary の嬉しいところは,検索窓に「чек」と入れれば「чек」で始まる見出し語の候補が表示されること(以下の画像)。

Wiktionary の検索窓に「чек」と入れたところ

うわー,候補がたくさんありすぎ。どれやねん?

ま,まあ,落ち着け。

なんか二つ目に「чекати」というのがあるぞ。
ウクライナ語はすべての動詞の不定形(辞書の見出し語の形)が -ти で終わるので,「чекати」は動詞という気がする。
-ти で終わる語のすべてが動詞(の不定形)というわけではないのだけど。

おお,なんか分かった気がするぞ。
「чекав」の -в は過去形を作る語尾なんじゃないかな。
ええと,-в は男性単数の過去形語尾だった気がする。
不定形の чекати の -ти を取って -в を付ければ男性単数の過去形 чекав になるはずだ。
この「男性単数」ってのは,主語が男性名詞の単数ってことね。

「чекати」のページを見る

ではさっそく Wiktionary の「чекати」に飛ぼう。
綴りを最後まで打たなくても,候補リストをクリックすれば飛ぶ。まあ打ったほうがウクライナ語のタイピング練習になるので,あえて打つ時もあるけど。

はい,ここね:

まず語義だが,「to wait」とある(英語版 Wiktionary なので,語義は英語で書いてある)。

重要なのは,「不完了体動詞」なのか「完了体動詞」なのか,という点。
語義が「to wait」といっても,不完了体なのか完了体なのかによって意味が違ってくる。

Wiktionary には「impf」とあった。これは「imperfective」の略で,不完了体ということぽい。

чекати が不完了体動詞ということは,「待っている」という状態を表す動詞ということ(えっと,たぶん)。

なので,чекав は「待っていた」だろう。
「待っていた」? なんのこっちゃ。

先回りするとプラカード全体で「ヘルソンは〇〇を待っていた」となるのだが,私はこの時点ではそうとは全く分からなかった。この 3 行が一つの文であるとも思っていなかった。

3 行目で頭を抱える

(この節は長いのでウクライナ語文法に興味のない方は次の「読めた,読めたよ!」節まで飛んでいただいても)

3 行目は人の頭で少し隠れているが,どう見ても「ЗГУ」だ。
短い語だな。

Wiktionary に「згу」という見出し語はないので,きっと格変化した名詞だろう。

ええと,-у で終わる変化形ってなんだっけ?
なんか男性名詞の対格とか属格(生格)とかだったかな。
格変化ってややこしすぎて覚えられない。

が,「対格かもしれない」と思ったことで,

これ,「ヘルソンは〇〇を待っていた」って意味じゃね?

筆者の心の声

と気づいた。
横にスイカの絵があるけど,「ヘルソンはスイカを待っていた」だと変だよなあ。

格変化表を見る

よっしゃ,格変化表を見よう。
『初級ウクライナ語文法』(黒田龍之助 著,三修社,2017)の巻末の変化表を見る。

確かに男性名詞の属格にも -у で終わるやつが載ってたけど,もう「対格に違いない」って思ったので,対格だけを見ていくことにした。だって絞らないと大変なんだもん。

それによると,対格が -у で終わるのは

  • (単数主格が)-а で終わる女性名詞の単数

のみであった。
そうなのか。

いやいや,ここに落とし穴があるのよ。
ロシア語なんかもそうだと思うけど,教科書の巻末の変化表って,全部のパターンが載ってるわけじゃないの。網羅しようとすると大変なことになるからだと思う。

とくに,『初級ウクライナ語文法』の変化表はシンプルめに作られているぽいので要注意。

子音で終わる男性名詞の単数対格は主格と同形で,『初級〜』の巻末の変化表にはそれが載ってるんだけど,実は「活動体」と呼ばれる名詞に限っては,属格(生格)と同形なのだ。(あたまパンクしそう〜)
属格は -у で終わるので,これも該当するわけだ。
(活動体というのは人間や動物なんかのこと)

よって,対格が -у で終わるのは

  • (単数主格が)-а で終わる女性名詞の単数

  • (単数主格が)子音で終わる活動体男性名詞の単数

の二つあるはず。えっと,あんまり自信無いけど,たぶんそう。

ともかくこの二つを前提に考えてみよう。

辞書形を推測する

ともかく辞書に載っている形が分からないと辞書も引けない。
いや,長い語であれば頭のほうだけで目的の単語に行きあたる。これは чекати のとき,そうであった。
しかし,「згу」のような短い語ではそうはいかない。

まず「-а で終わる女性名詞」の可能性を探る。
すると単数主格(辞書の見出しはコレ)は「зга」か。
しかし,そういう語は Wiktionary に見当たらない。
英語版 Wiktionary のウクライナ語の収録語はそう多くはないのだが,基本的な単語はけっこう載ってる印象がある。
んー,女性名詞ではないっぽい。

次に「子音で終わる男性名詞」の可能性を検討する。
単数主格は「зг」? いや,母音が入ってないじゃん。これはさすがに無いんでは。
ウクライナ語もロシア語も子音だけの語はあるんだけど,子音一つの前置詞とかなんだよな。子音二つからなる名詞とか無いでしょ(知らんけど)。

まてまて,ウクライナ語には「格変化の際に母音が消失する」という現象があったではないか。
例えば ранок(朝)という語に語尾 -у が付くと -о- が消えて ранку になる。
消えうる母音はたしか о と е だった(違ってたらごめん)。

すると,単数主格で「зог」か「зег」という語が対格になって「згу」になってるわけか?
しかし,「зог」も「зег」も Wiktionary に無い。んーむ。

不規則変化なのだろうか?
ここでいったん諦めかけた。

そもそも「ЗГУ」ではない?

2 文字目は人の頭で少し隠れていた。「Г」でない可能性は?
いや〜,無いでしょ,それは。
「Е」の真ん中の棒が左の棒から離れてる,とか不自然だしな。

待て待てーッ!
1 行目でヘルソン(ХЕРСОН)の「С」が四角くなってたじゃん! あれだよ,あれ。
2 文字目は「Г」じゃなくて,四角く書かれた「С」の下部が隠れてるんだよ!

だとすると「ЗСУ」ってことか? 「ズス」? そんな単語あんのか?

これは Wiktionary にも載ってた。語義は「Armed Forces of Ukraine」。
「ウクライナの武装した軍隊」?
なんじゃそりゃ。

ウェブ検索したらすぐ出てきた。「ЗСУ」は「Збройні Сили України」の頭字語で,要は「ウクライナ軍」なのであった。
「ЗСУ」は「ズス」ではなく「ゼー・エス・ウー」だったのか。

読めた,読めたよ!

プラカードには

「ヘルソンはウクライナ軍を待っていた」

と書いてあったのだ。

涙が出てきた。比喩ではない。実際に目頭がほの温かくなって涙腺が緩み,角膜がうるうるになったんだ。

自分は語学は何をやってもダメ。一を覚える間に十を忘れる歳になって,二つの数,三つの性,七つの格を持つ言語に取り組んで,何がしか身につくとは思えなかっただけに,この小さな小さな成功は素直に嬉しかった。

人類にとっては無益な一歩だがせいにとっては大きな一歩だったんである。

単なる嬉し涙とも違う。
プラカードを書いた方の気持ちを想像しようとして泣けてきたということもあるんだ。
何ヶ月も待ち続けたんだよ,この日を。
どんな思いだったのか。希望の灯が消えそうになることは無かったのか。
この日を迎えることなく無念の死を遂げた人々もいる。
泣かずにはおれない。

スイカは何?

プラカードにはスイカの絵が描いてある。
あれは何なのだ。

まず感じた違和感は,どう考えてもスイカの季節じゃないだろう,ということ。
「右下が空いたからイラストで埋めた」にしても,11 月にスイカは変ではないか。そもそもウクライナでスイカ食べんの?

ひょっとしてヘルソンの特産品だったりするのか。

「ヘルソン スイカ」でウェブ検索したらすぐに分かった。
まず目についたのは,ウクライナの国営通信社「ウクルインフォルム」の編集者である平野高志さんの以下のツイートだ。

スイカはヘルソンの特産品であった。しかもウクライナ人にハンパなく推されているらしきレベルの特産品であった。

さて,この記事(私の note の記事)を書いている間に,ヘルソン州解放に関する時事通信社の記事が発表された:

通信社の記事はいつかリンク切れになると思うので,かいつまむと,ヘルソン州は帝政ロシア時代からスイカの名産地であり,ウクライナ郵便は解放を記念してスイカの絵柄の記念切手を発行することにした,というようなことが書いてある。

それほどのスイカなのであった。

ヘルソン州のスイカは,私の住む千葉県でいう落花生なのだろう。
千葉県八街市やちまたしの落花生はそれほどの落花生なのだ。
千葉県民は節分のとき,さやに入った落花生を撒く人が多い。あとで回収しやすく衛生的,という利点もある。他県民もよかったら真似してね,八街産で(ただし高い)。

話が飛んだが,ウクライナ語を勉強しててよかった,本当によかったよ

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