見出し画像

カウントダウン「LEGEND GAME 2024」#37 柴田博之編

柴田 博之(しばた・ひろゆき)

外野手 左投げ・左打ち 1976年7月8日生まれ
ライオンズ在籍:1999~2007年
通算成績:337試合 774打数 2014安打 打率.264 5本塁打 49打点 73盗塁
背番号:12(99~02年)、2(03~07年)
当日所属:TEAM LIONS

日本中央競馬会(JRA)のトレーニングセンターの所在地で知られる滋賀県栗東市の出身。父の利秋さんは、兄の政見さん、政人さんと並んで「柴田3兄弟」と呼ばれた元騎手で、いとこにはG1通算11勝、JRA史上最年長勝利記録を持つ名ジョッキーの柴田善臣がいる。名門の競馬一家の生まれだ。

幼なじみには現調教師の福永祐一や池添謙一騎手がいて、幼少期の博之も騎手を夢見ていたが、小学生のときに軟式チームに入ってからは、野球のほうが楽しくなっていたという。

最大の武器は100m10秒7の足の速さで、栗東高時代は塁に出たらフリーパス。3年間通算110試合で149盗塁に成功。39本の三塁打を打ち、出塁率は5割を大きく超えていた。遠投115mの強肩の持ち主でもあり、その頃からライオンズのスカウトがマークしていた外野手だった。

東北福祉大に進学してからも、すぐにメンバー入りするのだが、無理がたたって左ヒジを痛めてしまう。1年生の秋には手術をして、1年以上のリハビリ期間を過ごすことになる。それでも4年春には打率.548、16盗塁。首位打者と盗塁王になって、仙台六大学リーグのMVPに選ばれる。

98年ドラフト4位でライオンズに入団。同期の松坂大輔、星野智樹と一緒に、プロ1年目から開幕1軍入りをして、2戦目には守備固めでプロデビュー。初スタメンの5月5日近鉄バファローズ戦でプロ初安打と、スタートは順調だった。が、徐々に打撃の非力さが目立ち始める。翌年には古傷の左ヒジが限界を超えてしまい、再び手術をすることに。プロ2年目は1軍出場なく終えてしまう。

現状を打ち破るため、始めからゴロを転がしにいくのではなく、強い打球を飛ばすよう意識改革。術後もバットを振り込んで迎えた01年は、開幕からイースタンで4割超の打率をキープ。4月に1軍昇格すると、14日の千葉ロッテマリーンズ戦で、プロ初本塁打を含むマルチ安打。28日マリーンズ戦では初の猛打賞と、結果を残し始める。

ライオンズファンに強いインパクトを残したのが、5月25日福岡ダイエーホークス戦。1点を追いかけるライオンズの9回裏の攻撃は、2死3塁。ここで打席の柴田は、相手守護神のペトラザから、センター前へ起死回生の同点タイムリー。興奮の余韻が残るなか、続く松井稼頭央の打球が左中間に転がると、一塁にいた柴田は持ち前のスピードで一挙生還。サヨナラ勝ちのホームを踏んで、人生初のお立ち台にあがったのだ。

この01年シーズンは112試合に出場。大友進の負傷離脱で空いたセンターのポジションをつかむと20盗塁に成功、わずかに規定打席には達しなかったが、リーグ最多となる8本の三塁打を放つ韋駄天ぶりを披露。人気競馬マンガ「みどりのマキバオー」をもじったのか「シバタオー」の愛称で親しまれ、西武ドームで打席に入るときには、競馬のG1ファンファーレが登場曲に使われた。

動き始めたプロ野球人生だったが、またしても左ヒジの痛みが柴田を苦しめる。オフには靭帯の損傷が発覚、いわゆるトミー・ジョン手術を受けるのだが、元のような状態には回復しなかった。

復帰後は指名打者や代走での出場が増えていったが、04年には4割近い出塁率、自身最多の22盗塁をマークして、就任1年目だった伊東勤監督の日本一に貢献する。

だが、これを最後に、出場機会は激減する。外野からの返球は思うようにならず。さらには左ヒジをかばうあまり、身体のバランスを崩して、腰痛が発症していた。

07年のオフに戦力外を通告されると、合同トライアウトに参加して現役続行の道を探るが、オファーは届かず。引退を決断した。

現在は、ベルーナドームから車で10分ほどの東京都瑞穂町で、少人数制の野球塾「やきゅうま」(http://www.yakyuuma.com/index.html)を開校。日々、子どもたちの指導にあたっている。

柴田博之 年度別成績

「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」
3月16日(土)12:00開場/14:00試合開始
会場:ベルーナドーム
配信:パーソル パ・リーグTV
放送:BS朝日(翌日録画放送)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?