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カウントダウン「LEGEND GAME 2024」#50 吉見太一編

吉見 太一(よしみ・たいち)

捕手 右投げ・右打ち 1980年7月23日生まれ
ライオンズ在籍:2006~10年
通算成績:6試合 4打数 0安打 打率.000
背番号:31(06~08年)、63(09~10年)
当日所属:TEAM SEIBU

京都成章高のキャッチャーで4番を打った中心選手。だが、右ヒジの剥離骨折で手術を受けて、98年春のセンバツには出場できず、チームも1回戦で敗退した。その悔しさから「甲子園で1勝」が合言葉になったチームは、夏の甲子園に戻ってきて、目標だった1回戦を突破する。と、そこから快進撃を続けて決勝戦に進出する。

そこで横浜高の松坂大輔の前に、ノーヒットノーランで敗れたことは、あらためて紹介するまでもないだろう。4番打者だった吉見には「スライダーが本当によく曲がった。ものスゴい変化球だった」くらいの記憶しかなく、遊ゴロ、見逃し三振、二ゴロ。9回表最後の場面は、ネクストバッターズサークルにいた自分の眼の前でゲームセット。第4打席はまわって来なかった。

ちなみに秋の国体で両校は再戦、吉見は松坂からヒットを打っている(試合は、松坂が毎回の16奪三振で完投して、横浜高の勝利)。

卒業後は立命館大に進学。その強肩から「古田敦也2世」と呼ばれたこともあったが、リーグ戦の出場は3年秋のリーグ戦からだった。それでも、北海道の社会人チーム「サンワード貿易」から声が掛かり、卒業後も野球を続けることになる。

当時「サンワード貿易」の助監督だった和田博実は、西鉄時代に稲尾和久とバッテリーを組み、引退後は長きに渡りライオンズの2軍監督などを務めていた人物だ。そんなライオンズ往年の名捕手のもとで成長した吉見は、入社1年目から在籍3年間で、社会人野球の2大大会に5度出場(04年都市対抗はNTT北海道の補強選手)。05年の大学・社会人ドラフトで3巡目指名したライオンズに、26歳で入団する。 

ずっと楽しみにしていた松坂のボールを、春のキャンプで初めて受けたときは、緊張したと話していいる。ただ、細川亨、野田浩輔、田原晃司と、経験あるキャッチャーがそろっていた上、同期には高校生ドラフト1巡目で入団した炭谷銀仁朗もいた。1軍出場のないまま、吉見のプロ1年目は終わり、このシーズン終了後に松坂大輔はMLBへ移籍。結局、公式戦では1度もバッテリーを組むことはなかった。

なかなか自分のバッティングフォームが固まらず、打撃面で苦戦。イースタンでは1年目が打率.235。2年目は.231。3年目が.171と下降していく。09年には、春のキャンプ中に左足腓骨を骨折して、大きく出遅れ。1軍出場のないまま、4年目のシーズンが終わっていた。

ようやくチャンスが巡ってきたのは10年。3月上旬のオープン戦で、銀仁朗が左ヒザの半月板損傷と前十字靭帯断裂の大ケガを負い、開幕絶望。細川と、上本達之、吉見太一の3捕手が開幕1軍入りをする。すると開幕8試合目の福岡ソフトバンクホークス戦で、6点ビハインドの9回表の守備からプロ5年目での初出場。「いきなりキャッチャーフライが飛んできて、ドキドキでした」と言いつつも、野上亮磨とのバッテリーで1イニングを無失点に抑えてみせる。

1週間後のオリックスバファローズ戦では、代打でプロ初打席に入り、セカンドゴロに終わる。結局3ヶ月半を1軍で過ごしたなか、6試合に出場して5打席ノーヒット、1死球。交流戦終了後、野田との入れ替わりで2軍に降格。そのまま再昇格することなく、このシーズン限りで現役生活を終了した。

引退の翌年から、球団スタッフとしてブルペン捕手を担当。17年には日本代表のチームスタッフとして、第4回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)に帯同している。

現在は「ライオンズ・ベースボールアカデミー」のコーチを務めながら、ときおりライオンズ戦の中継に登場。元捕手らしい視野の広い解説を、視聴者に届けている。

吉見太一 年度別成績

「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」
3月16日(土)12:00開場/14:00試合開始
会場:ベルーナドーム
配信:パーソル パ・リーグTV
放送:BS朝日(翌日録画放送)

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