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カウントダウン「LEGEND GAME 2024」#52 岡本篤志編

岡本 篤志(おかもと・あつし)

投手 右投げ・右打ち 1981年5月20日生まれ
ライオンズ在籍:2004~16年
通算成績:265試合 11勝11敗 10セーブ 58ホールド 防御率4.34
背番号:28(04~07年)、30(08~09年)、59(10~11年)、
    22(12~16年)
当日所属:TEAM SEIBU

三重の海星高では2年生エースとして、98年夏の甲子園に出場。3年春のセンバツでは、ベスト8入りしている。明治大では3年秋に、和田毅(当時早稲田大、現・福岡ソフトバンクホークス)に次ぐリーグ2位タイの4勝をあげるなど、4年間で通算12勝して、03年ドラフト6巡目でライオンズに入団する。

岡本はじめ、佐藤賢(ヤクルトスワローズ)、牛田成樹、呉本成徳(いずれも横浜ベイスターズ)と、この年は明治大の4年生4人がプロ入りをした。

開幕1軍は逃したが、4月29日イースタンの北海道日本ハムファイターズ戦に先発すると、7回15奪三振のピッチング。2失点して負け投手にはなったものの、楽しみなルーキーがいると注目を集めた。 

7試合目の1軍登板となった8月10日のダイエーホークス戦では、4回裏1死1・2塁のピンチでマウンドにあがり、そこから7回までノーヒットに抑えるロングリリーフ。プロ初勝利をあげて、アテネ五輪派遣で松坂大輔、張誌家、和田一浩を欠くチームの苦境を救ってみせた。

しかし、2年目以降はヒジ痛の影響もあり、先発すれば早いイニングでノックアウト。敗戦処理で登板しても失点を重ねる。08年のオフには股関節の疲労骨折が判明して、翌シーズンは丸ごと、治癒と回復に費やす形になった。 

「今年ダメなら終わりだから。最後の野球人生を楽しもう」と、腹を括った10年。股関節に違和感は残っていたが、2シーズンぶりの1軍登板となった7月1日ファイターズ戦で、2イニングを無失点に抑えてプロ初ホールド。7日のオリックスバファローズ戦では、リリーフで自身6年ぶりとなるプロ2勝目と、ベンチの信頼を勝ち取ると、そのまま1軍でシーズンを完走する。

プロ8年目となった11年は、前年セーブ王のシコースキーが右ヒジ手術のため帰国。長田秀一郎、藤田太陽といったリリーフ陣が不調で2軍落ちするなか、5月上旬からクローザーを任されて7セーブをあげる。ルーキー牧田和久が抑えに配置転換されたシーズン後半は、中継ぎにまわると、イニングまたぎは当たり前。9月14日に始まったチーム9年ぶりの10連勝のうち、ひとりで3勝をあげるフル回転。最後は15試合連続無失点で、オリックスバファローズとの激しいCS争いを制する原動力となった。

続く12年はシーズン序盤に不安定なピッチングが続いてしまう。すると、渡辺久信監督に呼び出され「明日からブルペンキャプテンをやれ」と、リリーフ陣のまとめ役に任命される。喝を入れる意味合いはもちろん、自分のことだけに必死になり過ぎて視野が狭くなっているから、周りを見る余裕を持つようにとのアドバイスを兼ねていた。その言葉に感じるところがあったのか、勝ち負け、点差に関係なくマウンドにあがり続け、チーム最多となる59試合に登板した。

多彩な球種を駆使しながら、インコースを強気に攻める投球で、10年以降はすべてリリーフで登板。13年には股関節痛の再発で登板数を減らしたが、翌14年には42試合に投げて11ホールド、防御率も2点台と復調してみせた。

だが、15年は右ヒジ痛に苦しみ、6月上旬に戦線離脱。9月には遊離軟骨の除去手術を受けたのだが、万全な状態には戻らず。「自分のピッチングができなくなった」と、16年限りでの引退を決意した。

引退後には、株式会社「L.M.K」を起ちあげて、代表取締役に就任。知人の紹介でミャンマーを訪れたことを契機に、外国人ITエンジニアなどを日本企業へ紹介したり、アスリートの就労支援をしたりする会社を経営している。社名の「L.M.K」は、ライオンズ、明治大、海星高、それぞれの頭文字に由来しているそうだ。

岡本篤志 年度別成績

「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」
3月16日(土)12:00開場/14:00試合開始
会場:ベルーナドーム
配信:パーソル パ・リーグTV
放送:BS朝日(翌日録画放送)

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