見出し画像

【西武ライオンズ 今日の見どころ】カウントダウン「LEGEND GAME 2024」#1 東尾修編

3月16日(土)に開催される、西武ライオンズ初のOB戦「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」。チケット即完売となったファン待望のイベントまで、あと2ヶ月に迫りました。

そこで、きょうから、出場が予定されているライオンズOBたちについて、このページで紹介していきます。

もしかしたら、今後オフィシャルのプログラムなどが販売・配布されるかもしれませんので、当欄ではなるべく一味違った現役時代の功績や、玄人好みする記録などを扱っていこうかと考えております。

第1回は、当日「TEAM LIONS」の監督を務める東尾修です。

東尾修(ひがしお・おさむ) 

投手 右投げ・右打ち 1950年5月18日生まれ
ライオンズ在籍:1969~88年 1995~2000年(1軍監督)
通算成績:697試合 251勝247敗23セーブ 防御率3.50
監督成績:937試合 489勝425敗23分 勝率.535
背番号:21(1969~88年 ) 78(1995~2000年)

和歌山県立箕島高校からドラフト1位で、福岡時代の西鉄ライオンズに入団。いわゆる「黒い霧事件」によって、投手の陣容が手薄になるなか、入団2年目の1969年には40試合に登板(うち先発が31試合)、早くも二桁勝利(11勝)をあげる。以来、達成した二桁勝利は14度で、この回数はライオンズの球団記録となっている。

ライオンズ投手  二桁勝利回数

内外角の幅を最大限に駆使する精緻なコントロールに加え、死球も辞さないマウンド度胸や、自分の左肩を相手打者に正対させて威嚇するような投球フォームから、その投球術は「ケンカ投法」と称された。

82年、球団の埼玉移転後、初めて出場した日本シリーズでは、現在で言う「ショートスターター」のあとの「第2先発」に近い役割を任され、中日ドラゴンズを相手に全6試合中4試合にリリーフ登板。2勝1セーブ(1敗)をあげてシリーズMVP。日本一を決める胴上げ投手に輝いている。 

83年から5年連続でダイヤモンドグラブ・ゴールデングラブ賞に輝いたように、フィールディングも一級品。特に“世界の盗塁王”福本豊をはじめ、パ・リーグの韋駄天たちと対峙するなか身に着けた、牽制球の上手さは卓越していた。

84年に甲子園球場で行われたオールスター第2戦、6対5とパ・リーグ1点リードで迎えた9回裏2死1塁。一打同点の場面で、地元のヒーロー掛布雅之が代打に告げられ、甲子園の盛り上がりが最高潮になるなか、東尾が1塁ランナーの高木豊を牽制球で刺して、なんとゲームセット。まだまだセ・パの人気の格差が色濃かった時代に、パ・リーグファンに快哉を叫ばせたのだった。

この年9月15日、稲尾和久に次いでライオンズ史上2人目となる通算200勝に到達。それから間もなく40年になろうとしているが、ライオンズ在籍時に200勝を達成した投手は、東尾が最後となっている。

なお通算251勝のうち、福岡時代の本拠地だった平和台球場で通算58勝、埼玉移転後の本拠地である西武ライオンズ球場(現ベルーナドーム)で61勝をあげている。このふたつのホーム球場で、それぞれ50勝以上をあげた投手は、東尾修ただひとり。福岡と所沢。ふたつのライオンズの歴史をつないだ大エースだ。

平和台球場 通算勝利数(左)・ベルーナドーム 通算勝利数(右) ベスト5

みずからの不祥事により、引退を早めてしまった感は否めないが、95年から1軍監督に就任。西口文也、石井貴、森慎二、豊田清、デニー友利、松坂大輔といった多くの投手を育成、また松井稼頭央、髙木大成、小関竜也といった若手野手を抜擢して、6シーズンで2度のリーグ優勝を成し遂げている。2010年に野球殿堂入り。

東尾修 年度別成績

・主なタイトルなど
 最優秀選手 2回(83、87年)
 最多勝利 2回(75、83年)
 最優秀防御率(83年)
 ベストナイン 2回(83、85年)
 日本シリーズ最高殊勲選手(82年)
 オールスター出場 10回(72、73、75、76、78、82、84~87年)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?