両親亡きあと、私を探す-7回忌

 母が亡くなって6年になりました。父は2年後に23回忌です。私は見えないところに湿疹を作っていました。七回忌を迎えたくなくて。母の介護が始まり、結婚して家を出てから、疎遠になった姉と顔を合わせるのが嫌だったのです。姉の夫とも。

 私と姉は仲のいい姉妹でした。そういうものだと育ったからです。私は子供の頃、喧嘩になればすぐ負けて、「豚、ブス、こんなこともわからないなんて馬鹿じゃないの」と言われていました。私は姉の後を追い、姉はこっそり隠れて置いて帰ったりして、それでも私は後を追い、真似をして大きくなりました。

 母は姉がいじめられることをとても不安がっていました。大きなほくろが顔にあるから大きな病院で取り、歯並びが悪いから矯正して、逆上がりができないから早朝に練習に行き、夜眠れないと起きてくるから、リチャードクレイダーマンのカセットを買って。トラブルがあれば2ページも3ページも先生に手紙を書きました。私はというと「この子の個性を大事にしたい」と放任されていました。母の祖母も母と姉の関係によく似ていました。過干渉の一卵性親子だったのです。姉は母が正しいと思っていたので言いつけをよく守りました。「おやつを食べるときは、母に必ず許可をとる」たとえ留守だったとしても、母のいる友人の家に電話して「お母さん、おやつ食べてもいいですか?」と聞くのがルールでした。私はたびたびそのルールを破って、母が隠している干しブドウを棚からわからない程度に食べたり、人の家に遊びに行けば食べられるのですぐ遊びに行ってました。

 姉は中学でいじめにあい不登校になりました。些細な理由でしたが、姉は空気が読めなくて思ったことをそのまま言葉にしてしまうことがありました。謝っても許してもらえず、朝おなかが痛くなり、1年半学校に行きませんでした。困った母は姉いろんなところへ行き、どうしようもなくなって叔父に姉を預けました。友人の家に行って母は「私の子供なのに私、あの子のこと何もわからない」と泣いたのだそうです。ずっと教師だった母にとって、どんな子供ともうまくやってきたのに自分の娘だけはどうにもならなかったことがつらかったのだと死後聞かされました。

姉は、そのあと学校に再び行くようになりました。芸人の物まねがうまかったのです。そのまま順調に高校を出て専門学校を出て、就職したらまたいじめが始まりました。私はこのころには服の貸し借りや恋愛相談をしたり、カラオケに行ったり、買い物したり、同じサークルに誘ったりしてかなり仲良くしていました。

父が死に、母が病気で入院した当たりから姉は不倫が始まって家に帰らなくなりました。不倫相手が奥さんをとったのでうつ病になり、たくさんの嫌がらせを不倫相手にするようになりました。リストカットしたり、死に場所を求めたり過呼吸になったり、親に内緒で精神科に通うようにもなりました。私と母は部屋を捜索して相手を特定し、精神病院を特定しました。母は精神科に行って「相手を殴ってやりたい」と先生に話したそうです。母と姉と私で話して不倫のこと、別れたこと、そして不倫相手の友達と今は付き合っていることなどを明らかにしました。ですが嫌がらせは続けてしまっていたようでした。

そのあと母が介護が必要になりました。私は県外にいたので戻ってくると家の中はめちゃくちゃで、母も姉も死にたいという状態。姉を何とか結婚させて、姉は家を出ました。私は夜の介護をやっていたので、金曜に姉に来てもらっていました。その時間寝ることにしていたのですが、ヘルパーさんから苦情が来ました。「お姉さんの暴言がひどくてお母さんがかわいそうだ」

母が何を頼んでもひどい言葉でののしっていたことを母から聞きました。一卵性親子の親離れ子離れは血が流れるのだと今では思います。私は「来たいときにおいで」と言って姉と母を離しました。

来たいとき。そんなときはどうやら訪れませんでした。何かを頼めば断り、私の電話は切り、子供が発達障害だから何もできないと。母はプレゼントを毎回用意して姉に来てもらいました。孫に会いたいから。

そして母が死に、最後まで姉は何もしませんでした。喪主は私。看取りも私。何もかも私。みんな知っていました。でも誰も何も言わなかった。姉の代わりにやるといった姉の夫も困り果てたときに助けを求めたら断られてしまいました。結局看取りは私とヘルパーさんやボランティアさんたちでしました。

遺書には「たった一人の姉妹だから仲良く」「家はどちらかが住んで」「遺産は半分に」と書かれていました。母は姉にわからないように私に少し多く用意してました。姉は家もお墓も嫌だったようで、私は墓守と家を相続しました。

何も知らない親戚から仲良くしなさいと言われるのも辛くて、自分の心のために誕生日にもメールして、年賀状も出して、姪に贈り物もして、だけど私の誕生日には帰ってこなかった。悔しかった。相手の土俵に乗りたくなかった。これを何年もやってました。お盆も来ない、法事の連絡は事務的なメールしか返ってこない。

カウンセラーに言われました「あなたは怒らないできた。怒るという感情を棚上げしてきた。それが恨みになってあなたを苦しめている。棚卸をしなくてはいけないんだ」と。

棚卸って何だろう。本人に言えばいいの?

何度も何度も想像しました。姉の夫に「友達の不倫相手と結婚した男」「不倫相手のほうと結婚してたら姉妹仲悪くならなかった」「あなたと付き合ってる時も姉は不倫相手に嫌がらせしてたの知ってる?」「なんでもするって言ってしなかったよね」「お前なんか不幸になればいいのに」って暴露してやること。姉より素敵な年賀状を出して、姉のしょぼい年賀を笑ってた。お母さんがかわいそう。すごくかわいそうだった。震災の時も姉が逃げてくるからと言って避難が遅れた。うちの心配すらしてなかったのに。

長い前置きになってしまったけど、そして7回忌を迎えたんです。私は夫の海外転勤が決まっていたので断れるだろうと思いつつあえて親戚がいる席で言いました。「海外だと連絡取れないからライン交換しよう。始めたって聞いたよ」姉は目が泳いで「あ、うん」と言ってそのまま席を立ちました。

これで姉が私を避けている証拠ができました。これですっきりした。

私はもう親戚に「うん、あの人は自分の視界に入った人としかコミュニケーションとれないんだよ」ってフォローするのはやめていいんだ。自分を避けている人間に誕生日メールを送ることも、プレゼントや年賀を送ることもないし、自分がより幸せになってるぶらなくていい。

お母さん、私にはあなたは薬だったかもしれないけど、あの子には毒だったんだよ。あきらめよう。もう母の無念を私が晴らす必要ない。

私は悔しかったんだ。母に言ってほしかったんだ。「妹はよくやったけどお姉ちゃんは何もしなかった。ひどかった」って。こっそりじゃなくて妹に多くやるって宣言してほしかった。

私は仲のいい二人でいたかった。同じ言葉を同じタイミングで言うあの頃みたいに。困ったときに助けてほしかった。結婚しても仲良くしたかった。私たちの従兄弟たちみたいに従妹同士が兄弟みたいに育ちたかったよ。

でももうこれを手放そう。私は十分苦しんだし、私は私の幸せのために生きていく。お姉ちゃんは私のいないところでどうか幸せになって。あなたの不幸をもう望まない。家族でも仲良くする必要なんかない。私は私を好きでいてくれる人たちと私の人生を生きる。

そう思ったら心も体も軽くなりました。「余生のように生きていた」のがウソみたいに。昨日から。仕返しすることでも無念を晴らすことでもなくて、これが棚卸だったんだってわかりました。あーこの私が、母が病気になる前の私だって。自分がこれだと思ったことを自信をもって行動するのが私だった。やっと見つかった。次は私の幸せを探そう。

また霧の中に迷い込むかもしれないけどあの時の私をやっと見つけられたような気がします。

(直すと思うけどこのまま一旦公開)




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