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Phum Viphurit 『The Greng Jai Piece』ライナーノーツ



アーティスト:Phum Viphurit
タイトル:The Greng Jai Piece
レーベル:Lirico / Inpartmaint
品番:LIIP-1553
発売日:2023年3月31日
作品詳細:http://www.inpartmaint.com/site/36813/

2018年3月にリリースされたシングル「Lover Boy」のヒットがタイ人シンガー・ソングライター、プム・ヴィプリットにとってターニングポイントだったことは疑いようがない。1stアルバム『Manchild』の国内盤CDがリリースされる数日前のことだった。パタヤのビーチで撮影された印象的なMVはYouTubeで再生数を積み重ね、公開後わずか2週間で100万回再生を記録。半年後には2000万回、1年で約3700万回を超えた。公開から5年が経った現在、ついに1億回が見えてきたほどだ。「YouTubeのアルゴリズムが生んだインディー・ポップ・スター」。それが当時プム・ヴィプリットに与えられた称号だった。
 
2018年4月、東京公演を皮切りに始まったワールドツアーを成功させ、12月には2度目の来日公演で充実した1年を終えた。その勢いはそのままに、2019年は「Lover Boy」に続くシングル「Hello, Anxiety」をヒットさせ、夏には初めてサマーソニックを経験。秋には両シングルを収録したEP『Bangkok Balter Club』をリリース(12月に国内盤CDとしてリリースされた)。「バンコク」を入れたタイトルが付けられたこの4曲入りEPは、いずれもバンコクの祖母の家で書かれている。幼くして移住したニュージーランドから18歳でバンコクへと戻ってきてからの数年間を切り取った1stアルバム『Manchild』に続く作品として、プム・ヴィプリットがバンコク時代に区切りをつけ、その後のより国際的な活動を予感させたが、直後には新型コロナウイルスのパンデミックが世界を襲った。そして2020年にリリースされるはずだった2ndアルバムが完成するのを私たちはその後しばらくの間待たなければならなかった。
 
彼のようにツアーを行い、世界各地のファンとの直接的な出会いを楽しむことで自らの精神的な糧とする類のアーティストにとって、その機会が奪われた数年間はまさしく悪夢だっただろう。それがメンタルヘルスの危機につながることとなる。

「パンデミックからしばらくしたら、ちょっと気が抜けてきたんだと思う。僕は考えすぎる性格なので、変化に対する恐怖心が日ごと増していった。常に『すべて終わった後に同じでなかったらどうしよう』と考え、パニックになっていたんだ」

「一人でいる時間が、多くの内省と思索につながった。自分の嫌なところがたくさん見えてきて、精神衛生上、静かな暗黒時代だった」とNMEのインタヴューで語ったように、パンデミックの日々が彼の音楽に対するアプローチに変化をもたらした。彼自身のアルバムの制作の中断によって、他のアーティストとのコラボレーションの機会を得ることができた。韓国のバンドSE SO NEON(セソニョン)のヴォーカリスト/ギタリストのソユンによるソロ・プロジェクトSo!YoON!との「Wings」。オランダ人シンガー・ソングライター、ベニー・シングスとの「Caroline」。そしてNulbarichとの「A New Day」。名曲がいくつも生み出された。その他にも野宮真貴のリミックスや、台湾のバンド落日飛車(Sunset Rollercoaster)のカヴァーなど、2020年から2022年の間に様々なアーティストとのコラボレーションが行われた。これらのコラボレーションは彼のメンタルヘルスにとっても重要な作業となったと想像できる。

ソロとしては沈黙を貫いていたが、2022年7月、パンデミック以降初めてのヨーロッパ・ツアーに合わせて、2ndアルバム『The Greng Jai Piece』の年内リリースがアナウンスされるとともに、アルバムからの先行シングル「Healing House」がリリースされた。ドラムンベースを取り入れて、『In Rainbow』期のレディオヘッドを思わせるような、これまでのプム・ヴィプリットの楽曲とは一線を画す斬新なアレンジを聞かせる1曲。「この2年間、僕のエコーチェンバーの頭の中をさまよっていた物語のひとつ」と彼自身が解説したように、「君は誰かにとってのすべて」という歌詞の切迫感のあるリフレインからもパンデミック期のメンタルヘルスの危機から立ち直るために作られた作品であることが想像できる。

8月には上述したNulbarichとのコラボレーションをきっかけに、NulbarichのJQがキュレーターを務めたフェスティヴァル「AREA DIP」に出演。このフェスは「AREA DIP 2022 in MIDNIGHT SONIC」として、サマーソニックの深夜枠の中で開催された。

9月には、2曲目の先行シングル「Temple Fair」が届けられた。タイの映画監督ペンエーグ・ラッタナルアーン(Pen-ek Ratanaruang)の2001年の作品『Monrak Transistor(邦題『わすれな歌』)』にインスパイアされた楽曲。「現代の文脈の中でタイ人らしさの境界線について問いかけると同時に、サードカルチャーキッズとしての僕自身の戸惑いを凝縮している」と彼は自ら解説している。

12月にはアルバムの延期がアナウンスされると同時に、シングル「Welcome Change」がリリース。シングルマザーに育てられた彼がたまたま見つけた両親の高校時代の写真からインスパイアされて書かれている。彼が敬愛するマック・デマルコのようなメロウなギターによるチルな前半から一転してピアノとビートを交えた開放感ある終盤への展開が新鮮な作品。この作品の原型は「Poem for My Parents」として、2019年5月の東京公演(リキッドルーム)のアンコールでギター弾き語りによって初演されたもの(バンドのメンバーすらこの時初めて聞いたという)。この曲を演奏しているとき、バックステージではツアーマネージャーが彼の母親にメールしているのがたまたま目に入ったことを覚えている。なお、この曲のピアノは8月の来日時に東京で録音されたものが使用されている。

そして、2023年1月31日、2ndアルバム『The Greng Jai Piece』がついにリリースとなった。アナウンスされたのは1月16日なので、本当にギリギリまで作り込んだ作品だ。前作とは違い、共作の2曲以外はソングライティングから楽器演奏、アレンジに至るまでほぼすべてを彼自身で行なっており、マルチ・インストゥルメンタリストやプロデューサーとしての才能を遺憾なく発揮している(だからこそあれだけ時間を要した)。ある意味では極めて2ndアルバムらしい作品だと言えるだろう。なお、これまでプロデューサーを務めてきたアヌチャ・オチャロエンが共同プロデューサーを務め、ミックスやマスタリングも手がけている。また、プム・ヴィプリット・バンドのキーボーディスト2Pがバッキング・ヴォーカルとレコーディング・エンジニアを務めている。

先行シングル3曲を含む全8曲を収録。「Lady Papaya」はタイのモーラム歌手オンウマー・シンシリ(Onuma Singsiri)の楽曲「Mae Kha Som Tam」をサンプリングした、プム・ヴィプリット初のダンスチューン。原曲はソムタム(タイのパパイヤ・サラダ)のお店の女主人による、彼女が作ったソムタムに恋をしたハンサムなタクシー運転手に対する泣き言が歌われている。「Mae Kha Som Tam」に直接的にインスパイアされた「Lady Papaya」は、そのタクシー運転手の視点で歌われている。モーラムはタイ東北部のイサーン地方やラオスの伝統音楽で、既存のレパートリーでもライヴごとに新しいアレンジにチャレンジするプム・ヴィプリットが、最近のライヴではモーラムを取り入れたダンス・サウンドを披露している。 

共作は2曲。「Tail End」はJay-ZのRoc Nationからリリースしたことがあるタイ・アメリカンのシンガー・ソングライターで俳優のヒューゴことヒューゴ・チャクラボン・レヴィとのコラボレーション。メロディーと歌詞は共作で、アレンジや楽器演奏はすべてプム自身の手による。ヒューゴの渋みのある歌声とプムの甘い歌声が作り上げたハーモニーによって、皮肉にまみれた物語が語られている。

 もう1曲は日本人トラックメイカー/MPCプレイヤーSTUTSと共作した「Kiko’s Letter」。STUTSとは2018年の最初の来日公演で出会い交流を深めてきた。同年にリリースされたSTUTSのアルバム『Eutopia』に収録された「Dream Away」で初めてコラボレーションを行った。その後、プムの来日公演や、STUTSの韓国公演やサマーソニックのライヴなどで「Dream Away」が共に演奏された過去がある。「Kiko’s Letter」は2022年8月のサマーソニック後のプムの東京滞在時にSTUTSのホームスタジオで行われたジャムセッションを元にしている。タイトルの「Kiko」はふたりが好きな水原希子から取られている。

アルバム・タイトルの「Greng Jai(グレンチャイ/グレンジャイ/クレンチャイ)」はタイでよく使われる言葉で、主にマインドフルネスや他者への配慮や気配りを意味する。これは日本人にも広く共有できる美学であり文化だ。「グレンチャイ・ピース」は皿に残った最後の1ピースという意味で、私が生まれ育った関西では「遠慮のかたまり」という言葉で表現される。

「The Greng Jai Piece」という言葉はアメリカのコメディー・ドラマ・シリーズ『The Big Bang Theory(邦題:ビッグバン★セオリー ギークなボクらの恋愛法則)』からの引用だそうだ。「グレンチャイ」はプム自身の謙虚な性格をよく表現した言葉でもある。

「僕を知っている人は、僕がとてもグレンチャイな男だと知っている。たとえ違うことを考えていても、普段は冷静さを装って、ただ物事に流されている。このアルバムとそのタイトルは、僕にとってその型を破ったもので、僕にとってのもう一つの人格なんだ」(NMEのインタヴューより)

このコンセプトを示しているのがアルバムの真ん中に配置されている「Greng Jai Please」だ。辛辣と皮肉に満ちた歌詞。現代の「微笑みの国」で暮らす彼のサードカルチャーキッズとしての独特のタイ人気質が散りばめられたファンク・トラックである。タイの寺院と市場に集い楽しむ人々と、プム自身を示す愛用のストラトキャスターを抱えたナマケモノのアートワーク(観覧車は1stの国内盤アートワークにも出てくる)は仏教の宗教画を模したかのようにも見えるが、様々な文化が共存する現代社会において、「Welcome Change」の歌詞のように「君は勇気を持って変化を受け入れないといけない」ということを意味しているのだろう。

 本作に散りばめられた彼なりのタイらしさ、タイ人らしさ。「タイのインディー・シーンをより国際的に発展させること」はかつて彼が語った夢だったが、タイから世界へと羽ばたいた先駆者としての矜持であり、義務感なのかもしれない。パンデミックの数年間によって、もしかしたら当初描いていたような2ndアルバムではないかもしれない。だが、本作から感じ取ることができたシンガー・ソングライターとして、プロデューサーとしての成長と進化は、プム・ヴィプリットの輝きがほんの一瞬のものではなく、これから彼が長く、おそらく数十年に渡り、自らの音楽を追求していく予感を感じさせた。

2023年3月14日 大崎晋作(Lirico)


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