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今日の夜ご飯なに?

「ワカメのお味噌汁とー、納豆ごはん、あと野菜イロイロに鶏手羽焼く。」

「わーー、やったー。俺ラッキーだわ」

ある日の「よくある我が家の会話」である。なんのキラキラ感もない夕ご飯の献立で恥ずかしいのだけど、息子にとったら「ラッキー」らしい。最初聞いた時は新しい冗談かと思ったが本心から言っているような顔をしている。

野菜イロイロとは、その日により、いんげんとしらすの胡麻和え・ほうれん草のおひたし・ブロッコリーときゅうりの青のり和えなど何品か用意する。

給食が苦手な息子。

1年生の頃には学校の給食を食べなさ過ぎて呼び出された。「一体、ご自宅で何を食べているのですか?」と担任に聞かれた。重大な問題らしい。

息子は横文字メニューが苦手なのである。「オムライス」とか「ハンバーグ」「エビクリームピラフ」「チキンドリア」「グラタン」など手を加え、色々と味を重ねた料理が食べられないのだ。「アイスクリーム」や「ケーキ」「プリン」なども基本的に食べることができない。「ラーメン」「チョコアイス」は別らしいのだが…。

そうなってしまったのには私に責任がある。

若い頃習っていた料理教室の先生は素材そのものを楽しみましょう。手を加えすぎなくて大丈夫!それより、良い素材を少しずつ無駄なくまるごと頂きましょう、みたいな考えを持つ方だった。私がちゃんと習ったお料理の原点がそこなので「その考え」が基本になっている。

また、たまたま通っていた保育園のお昼が手間ひまかけて作って下さるこだわりのある小さな保育園で「和の味」中心に慣れ親しんで成長した。

話を戻すが、学校の給食が悪いと思わない。

きっと献立を考えて下さる方が色々工夫し様々な味を楽しめるようにバリエーション豊かにしているのだろう。しかし、誰もがみんな同じように食べることはできない。成長の遅い早いがある様に食べられるようになる味や種類にも段階や育ってきた環境、それぞれの個性がある気がするのだ。

また、こどもは想像以上に食事を残すことに多大なストレスを感じている。料理を作ってくれた人に申し訳ない。その素材を作ってくれた人に申し訳ない。そして素材そのものを捨ててしまうことが申し訳ない。もったいない、と。

そして毎日、毎日給食を残すことで自分を追い詰める。

申し訳ないと思うのだけれど、どうしてもこの味は食べられない、と。世界には満足な食事を得ることができない子供が沢山いると先生に言われる。完食できたこどもは「偉い!」と誉めたたえられる。給食費は平等に払っているので、盛り付ける量もみな平等。減らすことなど特別対応は不可。小柄で小食なこどもは山盛りの食事を残すこととなる。結果、自分でも自分を責めてしまう。

担任に勧められ、仕事を休み給食時間をこっそり廊下から見に行ったことがある。うつむいてお箸を持ったまま硬直している我が子の後ろ姿を見て泣きそうになった。食べられるものがなかったのだろう。

学校は好きだけど、給食の時間が嫌だから行きたくないと朝泣く日々。しかし結局給食に屈せずに休むことなく通い続けた。そんな彼なりのがんばりを知っていたので「がんばれ」とは言えなかった。そんな1年生を過ごした。

とはいえ、マイナスなことばかりではない。

何かに自信が欲しかったのだろうか。給食はダメだけど、勉強はできる!そういう自信が欲しかったのだろうか。息子は勉強に打ち込むことになる。おかげさまで、勉強が好きになり、算数が得意になった。友達もでき、新しいことを教えてくれる学校が楽しい場所となった。クラスで1番計算が早いですと個人面談で伝えられた時は驚いた。

わたしは「いつかは食べられるようになるんじゃないかな〜」と思っているので実は大きな問題だと思っていない。実際に、彼も色々な場所や経験がきっかけとなり食べられるものが増えてきている。そう、日々挑戦しているのだ。

そんな息子も4年生。色々な情報を仕入れ成長した。

今の担任には意見文を新学期に提出し「自分は給食が苦手だ」と最初に宣言するようになった。そして中学受験をするらしい。給食から解放されるため、給食のない学校へ。カフェテリアのある学校へ。

「こんな理由で」と笑う人もいるけれど、自分で立てた目標をもった後ろ姿は美しく頼もしい。

苦手なことに立ち向かうのもいい。けれど、時には苦手なことをバネにするのもいい。そう思った。

そんな日々の給食を乗り越えての我が家の夜ご飯。今夜も平凡な料理が並ぶ。
これは彼が残さず食べることができるいつもの「ある日の夜」の会話である。

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