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今までの先生たち

前回描いた記事で、自分はとうの昔に忘れていたと思っていたとある先生の呪いの言葉が自然と出てきたことにびっくりした。意外に執念深かったんだな、自分。

幼少期のわたしは体が弱く、家庭の事情でカリフォルニアにいる両親と離れて三重県の自然の中で暮らしていた。他の子と比べて運動ができない自分はひたすら本を読み 、絵を描き続けていた。数年たって両親と新たな妹二人が帰国し、私たちは祖母と同居するため名古屋の近くに引っ越した。そして私が絵を習いたいと言ったのか両親が選んでくれたのか覚えてないが、気がついたら家から十五分の竹やぶと畑が多い場所にひっそりと佇むアトリエに通っていた。どんなことをしていたのかは覚えてない。けど楽しかったことと、外にあった手作りのブランコ、先生がくれるおやつが美味しかったのは覚えている。

そして数年も経たないうちにわたしの家族はカリフォルニア州、オレンジ都アーバイン市に引っ越した。当時九歳だった。

少し落ち着いてきた頃に母が見つけた家に近くにある絵画スタジオに通うこととなった。スタジオには髪がくるくるの笑顔が似合う末の妹と同じ名前のハワイ人女性の先生と、雰囲気が豊川悦司に似ている厳しめのアメリカ人女性の先生がいた。スタジオはなにかを習うというよりは、自分の好きなものをスタジオ内の道具を使って自由に描き、それについて先生にアドバイスを受けるというゆるい雰囲気の場所だった。そこでのほほんとした時間を過ごしているうちにわたしは「師匠」と出会う。

師匠はわたしと同い年の大人しめな日本人で、とてつもなく絵が上手かった。衝撃だった。わたしは彼女みたいになりたかった。スタジオに通う曜日も彼女と同じにした。年数とともに彼女の全てを真似した。アジカン、ポルノグラフィティやBUMP OF CHICKENを聞いた。鋼の錬金術師、D.Gray-manやエヴァンゲリオンを読んだ。ピアスも複数開け始め(二人とも、鋼の錬金術師にでてくるウィンリィというキャラクターに憧れていた)、化粧も始めたり、服もターゲットで買うのは辞めて古着屋やurban outfitters で買うようになった。気がついたら立派なオタクになっていた。師匠は絵が上手いだけではなく、年齢にしては落ちており、大人とも普通に話ができて、字も上手く、話も面白く、勉強もできて、とにかく全てが憧れの存在だった。現地校が違ったため、彼女にもっと会えるよう土曜日の日本人補習校にも通うようになった。まだスタジオには行っていたが、先生のアドバイスよりも師匠の言葉に耳を傾けていた。しかし中学の途中で師匠は家庭の事情で日本の山梨県に帰国してしまった。「一緒の高校に行きたいね」と二人で話し合っていた未来は一瞬にして崩れさった。

取り残された私は引き続きスタジオに通った。そして気がついたら私はオレンジカウンティーハイスクールオブアーツという家から車で二十分の場所にあるサンタアナ市の芸術中高一貫学校に転校していた。アメリカでは珍しく入学試験もあったはずなのにこの頃は師匠の帰国のことがショックであまり記憶がない。入学のためのポートフォリオを最後にスタジオで作ったことしか覚えてない。しかしこの学校が私の人生を大きく変えた。

その学校は変人の巣窟だった。田舎でつつましく育ち、アメリカに来てからも自分と似たような大人しい性格のアジア人としかつるんでこなかった自分には衝撃的だった。

芸術学校なので美術科はもちろん、音楽科、演劇科、声優科、ダンス科、脚本科、プロダクト科、写真科など様々な科があった。午前八時〜午後一時は普通教科、そのあとの数時間が特殊科目の授業という仕組みになっていた。ちなみにこの学校は私立の進学校であり、芸術学校といえども勉強もかなりの量をこなさないといけなかったので英語がまだ不十分だった自分は大変な思いをした。五年間よく頑張った。

そして色んなこと、色んな出会い、色んな事件と様々なことがあったが、そのことを書くとまた長くなるので別の機会に。とりあえず生徒も変なひとが多かったが先生もいま思えば変な人が多かった。変人とはいえみんな優しかったので嫌な思いはあまりしなかった。シャンティという名の黒い犬といつも一緒にいる髪がオーロラの色をした妖精王のような版画科の人種不明のシャロン先生。グラフィックデザイン科のK-POPが嫌いな赤毛のおちゃらけた若いアメリカ人男性のパトリック先生。黒澤明が好きで手が大きく暖かった頭の禿げたみんなのおじいちゃん的な存在だった映画好きの油画科のイタリア人のミスターG。いつも神出鬼没な大柄で何を考えているかわからないちょび髭の生えた中国人の陶芸科のアル先生。みんな優しく、よく褒めてくれ、時には厳しいが、的確なアドバイスをくれ、自分が先生になったらこうなりたいと思えるひとたちばかりだった。

ただ一人を除いて。

そのネルソンという名の先生は三十代の、髪が短かく、男の格好をした、青みがかった目が綺麗なアイルランド人でレズビアンの美術科の先生の一人だった。そして何故か日本のアニメや漫画に大変な嫌悪感を抱いている人だった。多くのアジア人はアニメに影響を受けており、自身の絵柄に反映されることがよくあった。そういう生徒を見つけては先生はすぐさま「これはアニメの絵、あなたの絵じゃないの」と言う。先生はアニメに親を殺されたんじゃないか?というくらいの勢いで生徒たちを注意していた。そんな先生の絵は油彩で丁寧にレンダリングされた立体的なドラゴンやハリーポッターの挿絵のようなファンタジー系のものがほとんどで、なんというか、当時の私たちの感覚的にいうと、古かった。なので私たちは(古い考えの先生がアニメに嫉妬してぎゃーぎゃーうるさいな)程度に流していた。ちなみに先生はレズビアンと公言はしていなかったが、芸術校なのでみんなそういうことに鼻が効く上に、先生の話によく出る「同居人」が女性であり、お揃いの薬指に指輪をしている写真があったので先生は隠してたつもりだったらしいが生徒にはバレバレだった。そういうのに偏見がない学校、というかむしろ「レズビアンなのを隠している。恥ずべきことじゃないのに。隠すなんて!」と反感を買いオープンにすることが美とされていたこの場所では先生は嫌われていた。なのでそんな先生に「これはあなたの絵じゃない」と言われ続けても無視していた。

だが何年も言われ続けていると少しずつ自信がなくなっていった。これは私の絵じゃないのか?私が描いたのに?アニメや漫画に似てるってだけで?でもイラストレーターは漫画風で描いてる人も沢山いるじゃないか。いや漫画風ってなんだ。ただの絵じゃないのか。人物に目があって背景であって色が付いていて。それだけでいいんじゃないのか?なぜカテゴライズするのか。目の前にある絵は私の絵じゃないのか。いや違う私の絵だ。でも私の絵ってなんだろう。と考え始める自分がいた。先生の言葉はまさに呪いの言葉だった。呪いにかかった自分は画風の特徴である「目」を描くことを辞めた。すると先生が褒めだした。恐らく自分は漫画風でもリアルでもない中間の絵柄だったが、漫画風よりだった目を無くしたことによりリアルな感じが増して先生の好みの傾向にシフトしたからだと思う。

先生に褒められたくてそうしたわけじゃないし、自分の絵に自信はあった。だが自分よりも圧倒的に権力があるように見える「先生」という、絶対的存在に攻撃され続けることに疲れた私はこうするしかなかった。誰にも理由は言わなかった。学校で私が描く人物たちは背景に隠され、髪で目が隠され、時には手で隠され、光を失った。

当時の私は日本の大学受験を考えていた。両親は応援してくれた。母が見つけた祖母の家の近くにあった美術予備校の湘南美術学院に毎年夏の間だけ帰国し、夏期講習を受け続けた。(そこには当時「ドラゴン先生」と呼ばれていたオオクボリュウやアズラーの生みの親の境貴雄が講師としていた) そこでは自由なアメリカと違って「課題」が出されアクリルガッシュでグラフィックなものを描いたり、鉛筆でデッサンしたりと普段とは違うことを沢山したので良い刺激になった。同時にアメリカでは、学校終わりに日本人のための大学受験を目的とした塾のデッサンクラスに通った。しかしそのクラスには生徒が三人しかおらず、先生は優しかったが子供と自身の大学の奨学金返済の話ばかりと個人的な話が多く無駄だと思い半年ほどで辞めた。その前には犬を五匹飼っている武蔵美出身の、和田アキ子に似た、今思えば犬目当てで行っていた個人で教えてる人のところにも通っていた。自分は色んな先生と出会い、ためにもなることもならないことも、様々なことを学んだ。絵に対する価値観もどんどん変わっていった。

そうして過ごしているうちに徐々に呪いは薄くなっていった。結局日本の大学には受験せず、アメリカで受験してめでたくアートセンターに合格した。毎年行われる高校の卒展で飾られた絵の中の人物の多くは目を隠していたが、私は高校を卒業したら呪いから卒業すると決めた。

今思えば先生も自身の「こうじゃないと絵ではない」という呪いにかかっていたように思う。同情はしないが。先生に対して不思議と憎しみは沸かなかった。先生のことを不憫だと思っていたからかもしれない。他の人には私の絵は褒められていたし、自分の画力に自信もあった。だからだろうか。生徒を褒める時も心の底から褒めているように見えない先生。誰にも認められない自分の鬱憤を生徒に当てているように見えた。誰にも尊敬されず、呪いに縛られて、自分ではどうすることもできない、可哀想なネルソン先生。

大学に進学し、波に揉まれ、時間をかけ私は呪いを完全に解いた。呪いは空に飛んで行ったのだ。先生は未だに生徒に同じ注意をして私がかかったような呪いを後輩たちにかけているのだろうか。今では知る由もない。呪いの反動かわからないが、今では絵を描く作業行程の中で目を描く時が一番好きだ。なので私は今日も線と線を繋ぎ、目に光をいれ、命を吹き込んでいる。

気がついたらこの記事を書くのに朝八時に起きてそれから五時間ほどかかっていた。過去二回の投稿は二時間づつだったのに。驚きだ。でもこれからどんどん書く練習をして短く、要点をわかりやすくまとめられるようになればいいと思う。絵を描く練習をしてどんどん早くなったように、文を書くの時間も短くなっていけばいい。さて明日はなんのことを書こうか。

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