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ケニア人の態度や口癖が悪い?コミュニケーションが苦手な人たち。

アフリカ大好きりさぴょんです。
今日は、ケニアに来て最初に驚いたケニアの人々のコミュニケーションです。これは文化の違いがあるので、誰が悪いものでもありません。でも、私の精神が疲弊するほどのダメージもあるものです。自分の中でも整理したいと思っているので、まとめました。内容が悪口・不快だと感じるかもいるかもしれせんが、一個人の意見として、ケニア人のコミュニケーションに違和感や課題を感じている方に読んでほしいです。

結論:
直接的な言い方を好む文化がある。
礼儀としての教育を受けていない可能性がある。

この二つの視点で考えたいと思います。

ケニア人のコミュニケーション

ケニアに初めてきたのは、2014年。オザヤという任地に派遣され、覚えたてのスワヒリ語で会話するも、なぜか命令形が多くて、嫌な気持ちになる。

「Kuja sahii」今来て。
「Lete kitabu yako.」あなたの本持ってきて。

直訳しては良くないのだが、命令形で会話することが多く、最初は驚いた。いわゆる丁寧な言葉"please" "I would like to"を使うことが少なくて、これはスワヒリ語だけでなくて、英語での会話でも多い。彼らが英語は上手ではないし、ちゃんと英語を学んだことがないからなのかもしれないと思ったが、スワヒリ語でも同じだ。

これは私にだけではなくて、家族や友達にもそう。特に大人が子どもに何か言う時は命令でいうことも多くて、ちょっと言い方キツイなと感じる。
「Tandika hapa!」ここ片づけて。(子どもに対して)

そして、お店に行った時にスタッフにも、同じように命令。
「Lete chai」チャイ持ってきて。 (お店の人に注文するとき)

ケニアでよく見る言動は、直接的な物言いを好むケニアの特性であって、日本文化で生まれは私にとっては失礼な言い方であるが、ケニアでは普通のコミュニケーションである。別にこのコミュニケーションが悪いという意味で出ない。逆に、世界からしたら、日本のコミュニケーションは文脈的なところが多く、遠回しでイライラするだろうしね(笑)なんでそんなことで誤るのか、ありがとうとすぐに言うのか、そう思われていると思う。自分が悪い時でなくても、すぐ日本では謝ることが多いよね。だけど、日本で生まれ育った私としては、ケニアでのコミュニケーションは、乱暴で無礼な発言と思うことが多いのだ。私は今が海外生活7年目であるが、日本にいると曖昧で遠回しな表現が多くて疲れるのであるが、ケニアは直接的すぎるなと思う。
どっちやねん!!(笑)

タンザニアとの比較

スワヒリ語を学ぶ人は聞いたことがあるだろう。タンザニアは正しいスワヒリ語を話してケニアは適当なんだと。タンザニアの場合は正しいスワヒリ語を話すだけでなく、いわゆる丁寧な表現を好む。"please" "I would like to"をちゃんと家族にも言う。

協力隊でケニアに住んでいる時に休暇でタンザニアに行き、スワヒリ語を話していると、スワヒリ語を話せるということに喜んでくれたけど、ぼそっと「きみはケニアのスワヒリ語だね」と言われた。

お店で、「何を飲む?」と聞かれて、
「nataka chai」チャイがほしい( I want chai)
と答えたが、その言い方は失礼になるので、
「Ningetaka kukuuliza chai」チャイを下さい(I would like to have a chai)
と言いなさいと怒られた。

こうして隣国タンザニアと比べるとケニア人のコミュニケーションは、フランクで砕けているというのがわかる。それに慣れればいいが、最初は結構失礼なやつだなとか私を見下しているのかなと感じてしまう。

NGOでのカウンセリングセッションで気付いた

エイズ孤児支援NGO・PLASでは、子どもと保護者に対するカウンセリングプロジェクトがある。子どもと保護者に対して、個々にカウンセリングを提供している。

  • 教育がなぜ必要なのか。

  • 将来の夢について。

  • 夢を設定したら、どうやって達成しているのか。

このセッションを通じて、子どもと保護者にいろんな変化が起きるが、面白いと思ったのは親子のコミュニケーションだ。宿題をやらない子どもに対して、木の棒で叩かないとやらないと悩む母親がいた。その母親は、彼女の母親に木の棒で叩かれて育ってきたので、彼女が知っている子育てはその方法なのだ。でも、宿題を継続的に自分でやってもらうには、子どもがどうやったら自主的に動くのかを知らなければならない。

NGOスタッフ「学校から帰ってきたら、まず子どもになんて言いますか?」
母親「どうだろう。水汲みに早く行ってきてというかな。夕食の前に必要だから。」
NGOスタッフ「まずは、学校で何があったのか、学校で何を勉強したのか聞いてみて下さい。その時は家事の手を止めて、目をみて話してください。」
母親「忙しいからそんなこと、、、、。わかりました、やってみます。」

すごく小さなことであるけど、母親が自分の勉強に興味を持ってくれるようになったその子どもは宿題を家に帰ってきてからテーブルに出すようになったという。宿題をちゃんとやるまでには至らなかったけど、宿題をやってほしい時に「宿題やれ」ではなくて、「今日はどんな宿題出たの?」という言い方に変えるだけで子どもの言動は変わってくる。お母さんは、別に娘を愛していないわけではないが、今までの慣習通りに娘に対して、行動していただけだ。娘とのよりよいコミュニケーションの発見をして、言動が変わったお母さんも多い。まあ、長年の習慣もあるので、変われない人も多いのも事実。

ケニアの田舎でのお父さんの権限


父親からの母親、子どもたちに対しての言い方が命令が多くて、びっくりする。それは貧困家庭になればなるほど。想像できると思うが、家の大黒柱であるお父さんは稼いで家を守りたいが仕事がなくて、それができない。お金を持って帰れないお父さんを家族は歓迎の態度では迎えられない。そうなると自分に対するストレスのはずなのに、家族に怒鳴ってしまって、強い態度を取ってしまう。

でも、これケニアだけでなくて、日本も同じではないですか?

自分に余裕がない人は、他人に優しくなれない。

と思っている。貧困家庭で教育を受けていないとなれば、視野が狭く、価値観が固まっているので、柔軟に考えることができず、単調になってしまう。自分の思ったことが必ず正しいと思っているので、簡単に他の考えを受け入れら慣れない。私も20歳前半まではそうでした。少ない給料の中で他人にどう思われるかで精いっぱい。
そういった家族で育った子どもたちは、やはり同じように育つだろう。

なんで言わないの?

これも日本とケニアの違いであるが、急に怒り出して、文句や不満を言いまくる。そして、私ともう話したくないと。
「なんで先に言ってくれなかったの?」

ナイロビで住んでいるアパートは週2お手伝いさんが洗濯や掃除をしてくれる。一般的なサービスである。入ったばかりの時に、大家さんがお手伝いさんを紹介してくれて、毎週水曜日と土曜日に担当してくれることになった。土曜に洗濯、水曜日に掃除という話だったが、どっちも掃除にしてほしいとお願いして、洗濯は自分でやっていた。

ある日、約束した日なのに、来ないお手伝いさん。
後日会った時に聞いてみると、体調が悪いのだという。そうなんだね。来ないのであれば、代理が来るとか、他の日に代わりに来るとかが普通のサービスだと思ったが、そこは文句を言わずにわかったと伝えた。大家さんからもお手伝いさんが休みなら、今日は来ませんと言ってくれてもいいかなと思うが、ケニアなので、私の基準を当てはめてはいけないよね。

そして、翌週土曜日に、今日は掃除に来るの何時?と聞くと、「今日は来ない。」と。彼女は他の人の洗濯とかをしているので「なんで?」となりますよね?「病気だから」と。病気だけど、働いていて、私のところには来ないというのは優先順位が低いということ?
私「代わりの人来るの?」
お手伝いさん「あなたの部屋を掃除したけど、窓を開けないし、アレルギーになったのよ。猫アレルギー。病院にも行ったしお金がかかったのよ。」
私「もし来れないなら言ってくれないと。窓を開けたいなら開けるけど。私はあなたと水曜日と土曜日で約束しててこれはあなたの仕事なんだから、私に言ってくれないと。」

そう言ってた、彼女は怒ってしまい、私とは話さないと。怒鳴らないでよ、と言われたが、私は怒鳴ってないつもりだが、強めの口調だったらしい。

そこで大家さんに入ってもらい、もう一度話すことに。そうすると、大家さんも、その会話で初めて彼女が体調が悪いということ、猫のアレルギーがあるかもしれないということを知った。
大家さん「わかった。でも、きみはそれを僕に言ってくれてないよね。なんで言わないの?

そう、なんで言わないの?

彼女が病気であることや猫アレルギーであることが事実であれば、相談できる。窓を開ければ解決できるのか、掃除はもうできないのか。

お手伝いさん「彼女(私)の部屋を掃除するとアレルギーが出て辛いの。窓も開けないし。そして彼女は私に怒鳴って他の人を探せと言うの!」

ちょっと話の内容を湾曲してお手伝いが説明しているけど、大家さんと私で共通していることは、なんで言わずに仕事しないみたいなことをするのか。もし病気であれば、相談してどうするか話し合って決めればいいことだろうと日本人の私たちは思ってしまうのだ。しかし、彼女は自分が悪いと思って欲しくない、ボスに文句を言いたくないと思っているのであろう。

この状況は、ケニアでよくあると思う。多分ケニアに住んでいる方は、こうゆう状況を何回も経験しているのでないでしょうか。
私は事実、文句、提案は違うとケニア人に説明することが多いがその違いを共感してくれる人が少なく、これは文化や今まで受けてきた教育なんだと思う。
事実:猫アレルギーだと病院に診断されて、彼女の部屋を掃除するのが辛い。
文句:彼女の部屋を掃除したくない。
提案:病気になってしまうので、彼女の部屋を掃除を他の人にお願いするか、彼女の洗濯だけ担当することはできないか。

大家さんと私は、部屋の掃除を拒否したことに最初は「なんでやねん」と思ったが、事実があれば、納得できて、こちらからも提案できるのだ。彼女が文句だけを言っていると、なんの解決策にもならないのに。

ここでいうコミュニケーションは、ネゴシエーションともいうのかもしれない。私たちも彼女の怒りポイントを理解できてないし、彼女も仕事をしていないことを怒られていると勘違いしている。

今回のお手伝いさんだけではなくて、よくある。自分の評価が下げることは言えないのだ。日本人の感覚では、それはあなたの評価が下がることではないので、「何も言わないこと、報告しない」ということが評価に関わることなのでないかと思う。自分の失敗を認められないのは、日本でもあるが、ケニアではその傾向がさらに強い。

教育を受けていない

礼儀とは?

語学学校の受付の女性。20歳後半くらいだろうか。
「Come! Come! You Come!」
3-4人受付に人がいるので、誰に言っているのかわからないが私に来いと言っているらしい。私はこの語学学校に通い始めて1か月。受付の人とは何回も話しているので、私の名前も知っている。
私の名前も呼ばず、ケニアでよく女性を呼ぶ時の「マダム」とも言わず、英語で「Come!」とだけ。

私は語学学校のお客さんだし、ケニアでも少なからず年齢が上の人を敬う文化があるので、この対応は失礼なのではないかと思った。学校に入ってきた目が合ったけど、挨拶もせずに、顔をそむけた。これはケニアの文化なのか。私に対してだけなのか。

この行動についてキクユ語の先生に聞いてみた。彼女は50歳で、ナイロビの郊外出身である。学校の先生の経験をしたことがあり、誰かに雇われた経験はこの語学学校以外でもある。

「彼女たち(受付)の人たちは、田舎から来て、安い給料で雇われているから、教育を受けていないのよ。」

キクユ語の先生

すごい言動の悪さは私にだけではないということを知った。今まで語学学校の受付であれば、当たり前にやるべき対応が取られずに、放置されることもあった。彼女たちは、雇用主である学校側から研修も何も受けてないのであろう。

これは私の偏見も入っているので、一般化できない話ではあるが、ナイロビに住むお金持ち層の知人家族の友人は沢山いるが、やっぱり教養がある。お金持ちでなくても、外国人の友人がいるようなケニア人から、命令形ではなくて、質問で私の意思や希望を聞いてくる。私に対して、ほったらかすということも、命令形で話すことも少ない。この関係は、私が外国人だからか特別扱いなのかと思っていたけど、同じケニア人同士で何かお願いしたりとか、何か聞きたい時の態度がやっぱり違う。

他の人にHeshima(尊敬)があるがあるかどうかは、本人の性格に限らず、教わるものよ。受付の人たちは、お客さんであるあなたや先生である私に態度が悪いのは、教育を受けていないから。」

キクユ語の先生

そう!彼女たちの態度はなんやねんと思いますが、
彼女たちは性格の悪いわけではないんです!
彼女たちは尊敬や尊厳のある対応を今まで周りの人からちゃんと受けたことがないから。そのような扱いを受けて自分の自己肯定感が上がるという体験もないのであろう。
家庭や学校で他の人を尊重して、お互いを大切という道徳を教わることが少ない。キリスト教であれば、教会で隣人を大切にしなさいと教わるかもしれないが、教会に行くのは習慣で、本当に生活のすべてに根差しているほど信仰していないという人も多い。なので、以前に他の記事でも書いたが自分が、体験したこともないことを他人にできるわけないのだ。
自分がお金を払ってサービスを受ける時に、素敵な配慮や気遣いを体験したなら、少しは価値観に影響しただろう。私はナイロビの他の語学学校に行っていて、日本とまではもちろんいかないが、適切な対応を受けた。挨拶はちゃんとするし、授業はどうでしたか?とちゃんと聞いてくれる。その受付の人たちは学校のスタッフからちゃんと指導をもらっている。なぜなら学校は、お客さんを逃したくないからだ。満足してもらえればお金を払って通い続けるし、他のお客さんにもいい口コミをしてくれる。
ということで、キクユ語の先生と、学校の代表がちゃんと受付の人たちを指導していないのがよくないよねという話になった。低賃金しか払っていない受付を成長させるような時間や努力に価値を感じていないのかもしれないけど、それは経営者としては失格だなと思う。

さいごに

教育を受けていないと言った時に、それは家庭かもしれない。学校かもしれない。職場かもしれない。教会かもしれない。どこかわからないけど、他人に尊厳を持って対応するかどうかは、必ず自分へも返ってくる。働くのに必要なスキルではなくて、人間として最低限のマナーなのではないか。私はきっと日本でちゃんとみんなに愛され、大切にされてきた経験があるから、そう思う。ケニアの人たちも家族に大切にされてきたんだろうけど、その方法は違う。私が”人間として最低限のマナー”と、上から物を言ってしまっているが、大好きなケニアの人々がそういった視点も持ったら、人生がさらに豊かになるのではないかと思う。これはコニュにケーションや文化であって、他人に尊敬の念の持っていないのとは違うと言う人もいるだろう。でも、普段、他人にも優しくて行動力のあるケニアの人たちが日常生活の中で、他人をどう扱っていくのか。ケニアがどんどん成長して中所得国になって、豊かな生活を送れる人が増えた時に、彼らは変わっていくのだろうか。それとも、変わらずにいるのだろうか。日本が発展して、関係性が希薄している中で、ケニアは今後どうなるのか。




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