「才能の民主化」と、才能に対する考え方について
最近「才能の民主化」という言葉がバズっていました。
生成AIによって、ハンディキャップを負ったひとでも才能を発揮する機会が与えられるということが言いたいらしいです。
この考え方に対して、私は明確に否定します。
まず、才能の定義についてです。
一般的にいいう才能の定義は上記です。
現実に落とし込むと、この才能はとは
上手くなる才能
と
有名になる(売れる)才能
この2つを合わせたものをいうでしょう。しかし、これは正しくありません。
この意味で才能という言葉を使う人は、「上手いのに売れない」「上手くないのに売れる」という現実で起こる矛盾に耐えられず潰れてしまいます。
私の経験上から考える才能とは
極端な偏り
です。
その偏りとは、その人の思想によるものです。自分が理想とする作品の世界観、緻密さ、または雑さなどのさまざまな表現を自らの体を動かして作った結果、思うように作りきれなかったものに対して諦めて完成と区切りを決めた作品のことです。
理想に近づけようと藻掻いて届かなかったからこそ、作品に偏りが生まれ、それが個性となります。
言い換えると、下手さがその人の個性なのです。
翻って、生成AIによって作られる個性とは一体なんでしょうか?
私も含めてクリエイターの多くは自分の作品に満足していません。常になにかが足りない。それをどうにか試行錯誤し補いながら作りづつけているのです。
しかし、現状生成AIはそんなクリエイターの築き上げてきた作品の剽窃に使われています。
それは「才能の民主化」という言葉に現れています。
この言葉は「他人の才能に乗っかって自分も稼いだりチヤホヤされたい」を言い換えただけです。
「才能の民主化」が機会均等ということを指すのであれば、PCやiPadの登場、そしてネット、SNSの台頭によりすでに達成しています。
今や低コストで絵や音楽を表現しそれを発表する場はあるのです。
繰り返しますが、才能とは極端な偏りです。
売れているクリエイターにも下手な時期はあり、その自分の下手さから目を逸らさず向き合ってきたのです。
この下手期は絶対に避けて通れません。絵師も作曲家も、この時期を嫌がるのであれば才能以前にクリエイターになる資格がないのです。歯を食いしばって乗り越えてください。
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