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#11 快楽至上主義

 これは我が家の男衆、具体的には父、兄、そして私、全員に言える。
 何をするにも自らの快、楽を好み、不快と面倒を避ける。しかし、すべての不快と面倒を避けることはできない。時に大きな不快を避けるため、小さな不快を踏むこともある。その場合、不快を最小限に抑えることを考える。

 しかし快あっての不快というか、最高においしいディナーを食べるために食事を抜いたり、あろうことか腐った不快を食すこともある。吐き気を催すような苦しみから開放されるという快もあるのだ。私にとってランニングがそう。異常なまでの快楽主義。

 果たしてこれを他人に勧められるかと言われると、それは無理だ。他人から見える私はとても生きにくそうだから。
 ならば、私が他の生き方ができるかと言われると、それも無理だ。私から見る他人の生き方は不自然だから。自分で快を捨て、不快の道に進んでいるように見える。理性のせいだろうか。しかし、その理性のせいで楽しくなさそうに見える。

 快楽だけを求めている私に理性は無いのかと問うと、そういうわけでもない。他人に気を遣うのは自分を嫌わないためだったり、遠回りで快を求めるのは明らかに理性の作用だろう。

 つまり、私は理性も感情も一緒になって、純粋に快を求めて生きている。それが僕の人生の指針であり、それに反するのは私を殺すのに等しい。
 イヌマエル・カントが言うところの自由の中でわたしが選んだのは徹底的な快楽至上主義だったというわけだ。

 私はわたしの奴隷なのだ。というのが、表現として一番しっくりくる。

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