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INFJは他者まで及ぶ個人主義である

こんばんは、Litsuです。
面白そうな話題だったので、思ったことを書きます。

※言い切るような書き方をしていますが、あくまで自分の感覚をもとに自分と似た人間はこういう傾向にあるのではないかという見解を述べているに過ぎないことを前提に読むようお願いします。

私はINFJも根本的には個人主義であるが、共感性が異様に高いために、自分というものが他者の気持ちにまで拡張され、延いては集団にまで拡がっているのではないかと思っています。

私も人間なので自分の認知を超えたものは知覚できません。なので常に他者の不幸や窮状に胸を苦しめているわけでもありません。それに思いを馳せたり、ニュースなどで見たり、目の前に現れたりなど認知の内側に入ってきたものに限って共感性が働きます。

共感が働く=自己が他者に拡張されていると考えれば、その瞬間自己より主張が強い他者の感情を我がことのように優先してしまうのは自然なことだと思います。

ただ、この”共感”というのは本当に相手の感情に侵入して同化しているのではなく、あくまで自己の想像という演算上で疑似的に相手の感情や思考を再現しているに過ぎないということには注意が必要です。

なので、実際に相手がそこにいなくても”共感”は発生します。実際の相手はいま全く違うことを考えていたとしても、疑似的に出来上がった脳内の相手の感情をもとに行動を決定してしまいます。

傍から見れば、個体としての自分を超えた利害や目的のために判断し行動しているように見えますが、その瞬間は文字通り自分のことのように他者を感じてしまうので、その動機は利他的であると同時に利己的でもあるわけです。なので他者への"共感"が落ち着くと、自己が元の範囲まで戻り、過去の自分の行動に疑問を持ったりすることがあります。

ただ、基本的にその振り返りをしながらまた他者や当時の自分を脳内で生成してしまって”共感”状態に入るので、よほど従来の自分の感情とかけ離れていない限り、その人の感情(拡張された自分の感情)が負から正に変わって嬉しいし、それを実現できた個としての自分も素晴らしいと感じるのだと思います。

ここまでが高い共感性と利他的に見える行動への見解です。


次はなぜ強い倫理観を持っているかです。
結論から言うと前述した高い共感性が自分が脳内で描く人類にまで拡張された結果だと思います。

当然全人類一人一人に”共感”しているわけではありません。身の回りにいる個人から始まり、それをもとにさらに抽象度の高い社会的属性を持った人々へと、思い描くたびに”共感”して自分と地続きに捉えてしまう。その結果、想像の及ぶ限度であらゆる属性を持った人類という自分と地続きの存在を脳内に宿し、それらの多くが出来る限り納得できる考え方を良しとするように自然となるのだと思います。

自己の中に想像した個人や人類はもはや自身の拡張の上にあるので、現実で想像(理想)通りではないことを目の当たりにすると、失望します。こうすればみんなお互いとって納得できる形に収まるのにと悲しくなります。もはや自己嫌悪なのかもしれません。

本当の意味で他者と思えればどうでもいいと切り捨て悲しくならないはずです。しかし、他人すら自己の延長であると勝手に無意識で思い込んでしまっているので、ときどき精神が不安定だと、理想のために当然自分が出来ることを相手が出来ないことに無性に苛立ちを覚えることがあります。


ここからは現実への対応について段階的に書いていきます。

成長につれ想像(理想)と人は異なる部分が多くあるのだと理解し、自分の想像に修正をしていきます。想像よりも良いところを見つけると修正は嬉しいですが、大抵その修正はため息混じりなことでしょう。

修正は加えても”共感”により自己の拡張であることは変わらないので、初期の想像(理想)とは離れても、負の側面を見つけたら正に転換させようとします。

しかし、時に限界が来ます。
ああ駄目だ、どうしようもない。救いようがない。自分の他の部分まで悪影響がでる。

そこでするのが、切り離しです。どうしようもないそれを自己の拡張上から例外的に排除するのです。そうすることによって、ついに見捨てることが出来るようになります。見限った相手に向ける感情が自分でも驚くほど冷たいと思ったことがあります。基本的にあらゆる人を”共感”して生きてきたのでその落差に驚くのです。似たものにドアスラムがありますが、ドアスラムはある程度関係性が築かれたうえで無理やり切り離す行為なので、傷になりやすく、痛みや跡が残りやすいのです。

さらに実際の人間と接する機会が増えてくると、例外的排除をする機会も増えていきます。またも想像(理想)を裏切られることを予期して警戒心が高まり、疑り深くなります。

上手く折合いがつけられると、”共感”に意識してある程度の制限をかけ、事前に他者と自己の間に低い柵を設けられるようになります。その状態でふれあうと、自分の”共感”をどの程度開放してよいか見極める余裕を与えることが出来ます。その結果、自己の拡張上に自分の想像(理想)を乱す”具体的な個”を”完全には”引き込まないことが出来るようになります。
(あくまで精神的に安定していて、理性が上手く働くときに限りますが…)

上手く折合いがつけられないと、人間不信に繋がります。”共感”を常に開放しており、異物が入った瞬間に拒否反応を示して、精神的に疲弊します。あくまで”共感”は制御不能状態で開放されているので、理想に適したものが入ると喜びその感情の落差に困惑するかもしれません。そうして裏切られることに慣れて、精神がすり減ると、拒否反応を示す自分にとっての異物がさらに目につきやすくなり、より高頻度で拒否反応を起こしてしまう負の連鎖に陥ってしまいます。

私も折合いが上手くいっている状態と人間不信に陥りそうな状態を行き来している身なので、確かなことは言えません。
ただ強いて言うなら、

まず他者への”共感”を拭い去って純粋な自分と向き合い、こうありたいという理想の自分の概観を持つ。そしてまだ遠くに感じるそんな自分を常に意識し、まるで北極星のように見据えて進む方角を間違えないこと、間違えてもまた必ず戻ること。こうして拡張されていない純粋な自己をしっかり認識することで心の整理がついて生きやすくなる、そう思います。

最後に、”共感”は生まれ持った性質です。これからもそれは変わりません。自己を他者まで広げ行動できる、より幅広い感情を感じ取れることは上手く使えばより大きな喜びを得られるそんな才能でもあります。せっかく持って生まれたなら、その才能に飲み込まれるのでなく、上手く利用して”自分”の幸福を増やして生きたいと私は思います。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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