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イギリスのSICK! Festival 2019の鑑賞リポート:医療・福祉と芸術のフェスティバル(祭典)

2019年9月18日~10月5日の3週間にわたって、イギリス・マンチェスターで開催の「SICK! Festival」(直訳は「病気のフェスティバル」)。第1週に劇場で行われたパネルディスカッションと、ダンス、音楽、演劇の公演、美術館でのアート展示についてリポートします。

現代社会の病気・障害・生死などを扱う芸術祭

SICK! Festivalは、誰にでも関係するのに普段はなかなか話し合うことができないテーマ、病気や障害(※)、死など、心身の健康を扱う、世界でも珍しい、イギリスのフェスティバルです。演劇、ダンス、音楽、美術(アート)などの公演や展示、シンポジウムやトークなどが行われます。

2013年に始まり、これまで隔年開催でブライトンとマンチェスターの両都市で行われていましたが、2019年はマンチェスターのみで開催されました。

(※「しょうがい」の表記は、「障害」「障がい」「障碍」でいつも迷うのですが、ここでは、社会が変わらなければという意味も込めて、「障害」とします)

2019年の主要テーマは「障害と社会」「死」「若者」

2019年のSICK! Festivalのテーマは、第1週が「障害と社会」第2週が「終末期医療・介護」第3週が「若者のメンタルヘルス」です。これらは、日本にも存在する問題だと考えられるでしょう。パンフレットには、次のような問いが掲げられています。

How do we care for ourselves and each other? How do we ensure that all voices are heard? What is it that makes life worth living and how should we act when life seems to have lost that value? 
私たちは自分をどうケアするか、そして互いをどうケアするか?全ての人が声を上げられるようにするにはどうしたらいいか?生きる意義とは何か、そしてその意義が失われたと思えるときにはどうすべきか?

全ての週のイベントを見に行きたかったのですが、それは無理なので、第1週の数日間、マンチェスターを訪れました。

今年導入された「Pay between Scheme」とは?

今回の2019年のフェスティバルでは、有料の公演などのイベントについて、「Pay between Scheme」(試訳は「料金選択制」「選択式料金」)が導入されました。これは、5ポンドから15ポンドの間(1ポンド刻み)で、チケット購入者が料金を選ぶというものです。

SICK! Festivalで扱うテーマに関りがある人の中には低所得者もいるため、参加する障壁をできるだけなくしたいという意図で導入されたそうです。

SICK! Festivalを知るためのサイト

▼SICK! Festivalの公式サイト(英語)

▼SICK! FestivalのTwitter(英語)

▼国際交流基金サイトのSICK! Festival概要(日本語)

▼国際交流基金サイトのSICK! Festival創設者インタビュー(日本語)

▼The GuardianサイトのSICK! Festival 2019レビュー

The Guardianのレビューは、次の段落で締めくくられています。

We like to think that we’re beyond taboos, that nothing is off bounds any more. But, when it comes to the health of our bodies and minds and the universal, inescapable experience of death, we’re still pretty tight-lipped. In attempting to break the silence and confront the unspoken – often with humour and imagination – Sick! festival has a vital role to play.
私たちは、タブーを超越している、禁止された領域などもはやない、と思いたがる。しかし、心身の健康や、誰にでも訪れる避けようのない死に関しては、いまだに口を閉ざしているのだ。沈黙を破り、語られていないことに向き合う――笑いと想像を交えて――試みとして、SICK! Festivalは極めて重要な役割を果たしている。

英語のnon-disabled(非障害者)という表現

SICK! Festivalでも、またそれ以外の場でもよく見聞きする、non-disabled (people)という言葉。日本語の「障害のある人もない人も」という意味で、disabled and non-disabled people/artistsなどの形で使われます。

disabledは「dis(不・否・反)+abled(できる)」で「できない」という意味で、それにさらに「non(否)」を付けて「できなくない」つまり「できる」という構造の語です。

「健常者」は自分たちが基準、標準、主体のように思ってしまいがちですが、英語の「disabled and non-disabled people」はdisabledにnonを付けることによって、日本語の「障害のある人もない人も」は「ある」を先に持ってくることによって、それを反転させている、または主従の関係が生じないようにしていると感じます。

「障害者の芸術」といった言葉の使い方を考えるパネルディスカッション

9月19日(木)の午前中、マンチェスターの郊外にあり、展示スペースやイベント会場も備える劇場「The Lowry」(※記事のトップ写真がその外観です)で、いわゆる「障害のあるアーティスト」たちによるパネルディスカッションが行われました。

テーマは、「How do we choose which words to use?」(私たちは、どんな言葉を使うのかを、どのように選ぶのか?)です。フェスティバルのサイトやパンフレットでは次のように説明されています。

Not all disabled artists use the same terms, and not all those labelled ‘disabled’ by others self-identify that way. How different are the practices described as ‘arts and disability’, ‘disability arts’ and ‘inclusive arts’? What role does self-definition play?
障害のあるアーティストの誰もが同じ言葉を使うわけではない。他者から「障害のある」とラベルを貼られた人の誰もが、そのように自己認識しているわけでもない。「アート(芸術)と障害」「障害者のアート」「インクルーシブ(包括的)なアート」と表現される行為にどのくらいの違いがあるのか?自己認識が果たす役割とは何か?

パネリストは、(名前が挙げられず申し訳ないのですが)主に詩人や作家(書いたものを読むパフォーマンスを行うアーティストも)だったようです。耳の聞こえない(deaf)アーティスト(手話通訳もいましたが、口話を習得したそうで、発言の際は発話なさっていました)、アルビノのアーティスト、両親がナイジェリア出身のイギリス生まれのアーティスト(障害があるのだと思いますが、何かは分かりませんでした)などがいました。

私の英語力では、しかも予備知識に乏しい状態なので、全てを聞き取ることはできませんでしたが、おそらく分かった(と思った)内容のうち、印象に残ったものを紹介します。(間違いがあったらご指摘いただきたいですが、このパネルディスカッションのパネリストと聴衆の中に、他に日本人らしき人は見当たりませんでした。でも、もし万が一、日本語ができる人がいたならば?!)

・disability art(障害者のアート)と言われるが、作品で障害を扱っていない場合もそうなるのか?
・deaf artist/performer(ろう者のアーティスト/パフォーマー)として、deafであることはアイデンティティーの一部だが、それが主なのではなく、実績からartistとして優れていると評価されている。
・impairment(機能障害)をテーマに詩を書き、パフォーマンスをしている。
・障害者は、パラリンピック選手のように「すごい」か、pity(かわいそう)かの両極に捉えられていて、その中間がない。
・disabilityについて、間違ったことを言ってしまって傷つけたらどうしようなどと恐れる気持ちもわかるが、それでも、もっとオープンに語ってほしい
・障害者に対して使われるspecial needs(特別なニーズ・援助・配慮)という言い方は好きではない、自分では「特別」とは思っていないから。access needs(入手や利用の手段としてのニーズ・必要性)の方がまだいいかな。
・visual impairment(視覚障害)があり、クリエイティブ・ライティング(文芸創作)の授業では、自分が書いた作品について、「どうしてそのように描写したの?」と聞かれたが、自分はmetaphor(暗喩)としてではなく、本当にそのように見えるからそう書いている、そういう見え方をpositiveに(前向きに、良いこととして)捉えて書いている。
子どものときは障害があるということを意識していなくて、成長するにつれ、stigma(スティグマ ※下記に参照サイトのリンクあり)が形成され、意識するようになった。
person with disabilitiesとdisabled personのどちらを使うかは人にもよるし、(英語圏でも)国によって好みの傾向に違いが見られる場合もある。
・handicapped personという言い方は嫌がる人が多い。
・access needs、access requirementsという言い方がある。
・「100 percent hearing impaired」と言われるのは嫌い。
・suffer from(~を患っている、~に苦しんでいる)という言い方が嫌い。
・いろいろと質問されて腹が立つこともあるが、何も聞かずにラベルを貼られるよりは、聞いてくれた方がいい
minority(少数者、マイノリティー)という言い方は嫌い(特に、人口の約半数を占める女性をminorityと表現するのに違和感がある)。pervasive populationなどという言い方の方が(majority=多数者、マジョリティーの言い換えとして?)良い。
・メンタルヘルスが良くない状態は、temporarily disabledとも捉えられる。
・履歴書に「刑務所に入っていた」と書く方が「精神疾患があった」と書くよりも、6倍雇用されやすいという統計(調査)がある。

パネルディスカッションを聞いて、障害についてもですが、それ以外のこと(仕事や親密な関係においてなど)についても、「こういう言い方を好む、この言い方は嫌い」「こうしてほしい、こうしてほしくない」ということを伝え合った方がいいと強く思いました。

当たり前ですが、人はそれぞれ異なり、自分と相手の体が決して同一ではないように、思考や感じ方も当然違います。それを互いに確認し、だからといって相手の望むように完全にできるとは限らず、話し合って譲歩や妥協もした上で、最善の仕方を探っていく必要があります。

この方法は時間も手間もかかります。しかし、自分はこう思うから相手も同じだろうという思い込みに基づいて接したり、相手はどう思っているだろうかと自分だけで悩んで結局関わりを持てなかったりするより、よほどいいと思います。

もう一つ気になったのは、質疑応答で出た話ですが、メンタルヘルス、精神疾患について、イギリスでもやはり強い偏見があるということでした。履歴書、雇用に関する調査はどこのものか分かりませんでしたが、イギリスか、もしくは他の欧米の国のものだと思います。日本でも身体障害者や知的障害者と比べて精神障害者の雇用は少なく、増やそうという動きが報道されていますが、その調査データは(いろいろな意味で)衝撃的でした。

▼このパネルディスカッションを含むイベント「Unlimited Connects North」について(英語)

▼stigma(スティグマ)について(日本語)

「どんな代名詞で呼ばれたいですか?」と聞かれた

「どういう言い方がいいか、どうしてほしいか」を伝え合うことに通じることとして、このパネルディスカッションを含むイベント「Unlimited Connects North」では、受付で名札を渡されるときに自分の「pronouns」を書くよう言われたことにも触れておきます。

pronounsは「代名詞」で、英語では、男性ならhe、his、him、女性ならshe、her、複数の人ならthey、their、themとするのが従来の決まりでした。でも、これって「誰が」「どうやって」決めるのでしょう?また、男性とも女性とも規定しない1人の人間は、どう表せばいいのでしょうか?

このような問題意識から、男性形・女性形が文法的に厳密に存在するヨーロッパ系言語圏などで、「自分が」どの代名詞で呼ばれたいかを表明する動きがあります。Mr.やMs.といった、名前に付ける敬称についても同様です(性を特定しない敬称として英語ではMx.があります)。

今回のイギリスへの旅では、この名札と、National Railのサイトで鉄道のチケットを購入した際に、敬称の選択肢にMx(イギリス式では通常「.」は付けません)があったことから、性の多様性への対応を体感しました。

▼性の多様性を反映した英語の代名詞や敬称の詳細(日本語)

多様な身体のダンサーが「障害」の言説に挑む、Candoco「Let's Talk About Dis」

9月18日(水)19時、19日(木)19時の2回公演で、会場はThe Lowry

Candocoは、1991年創設の、障害のあるダンサーと障害のないダンサーによる、イギリスのダンス・カンパニーです。2003~06年には、日本のダンサー・振付家でろう者の南村千里氏が所属していました。有名なのでカンパニー名は知っていましたが、作品を見るのは今回が初めてでした。

上演は、40分ほどのパフォーマンスと、その後に出演者や制作者による20~30分のトークで構成されていました。

このパフォーマンスは2014年に制作され、出演者たちの体験などを盛り込んだ自伝的な内容です。

タイトル「Let's Talk About Dis」(直訳は「これ[障害]について話そう」)のdisはthisの非標準的なつづりらしく、disabilityのdisと掛けているのだと思います。

ダンサー・振付家ではなく、言語と身体表現を追求している美術家・映画監督(ビジュアル・アーティスト)のHetain Patel(ヘテイン[ヘテン]・パテル)氏とのコラボレーションによる作品で、踊りの振付については専門家に相談しながら制作したそうです。

タイトルに「話そう」とあるのが象徴的で、文字通り「話す言葉(手話も含む)」が多用されていて、ダンスよりも言葉の要素の方が大きいかもしれません。出演者の中には、トークのときに、ダンサーというよりアーティストと自分を表現した人もいました。ただ、話すときには出演者の体があるわけで、身体性が強く迫ってくるという点で、演劇(やアートのパフォーマンス)というよりはやはりダンス作品だという気がします(こういうジャンル分けがかなり重要だと思っているわけではありませんが)。

出演者は、車いすを使う人、片脚がない人(パフォーマンス中に義足を付けたり外したりします)、片方の肘から下がない人、手話をする人(手話はろう者ではない人もしていました)、健常者など。

車いすでものすごく素早く移動したり、義足で舞ったりといった踊りも目を引きますが、印象深かったのは、1人のフランス人がフランス語を話し、別の人がそれを英語に「通訳」し、また別の人がそれを手話に「通訳」する場面や、今度は確かブラジル人がポルトガル語で話して、それを英語や手話に「通訳」する場面。

フランス語やポルトガル語に英語字幕などは出てきませんが、実は、フランス語の内容と、英語に「通訳」した内容はかなり異なっています。私のフランス語の理解力は英語よりさらに低いですが、フランス語が全く分からなくても、話すときの表情やジェスチャーや話す時間の長さから、どうやらきちんと訳してはいないらしい、ということは推測できるようになっています。そうすると、私はどこの国・地域の手話も分かりませんが、手話でも、もしかしたらフランス語とも英語とも違う内容を話しているのかな?と想像するわけです。

ローラさんというフランス出身のダンサーがフランス語で話していたのは、赤裸々な体験談でした。例えば、駅で、ローラさんの片方の肘から下がないのに気付いた子どもが、「ギャー」と叫んだから、「うわーっ」と脅かしてやったとか(たぶん、そういう話でした)。そういう話を、笑えて仕方ないといった調子で話します。でも、それだと直接的過ぎるから、英語ではもっと遠回しな話をするのです。イギリス人は礼儀正しいとか、short(背が低い)ではなくun-tallやnon-tall(背が高くない)、less tall(背がより高くない)と言おう、などというせりふが出てきて、英語の「通訳」ではきっと遠回しにしているのだろうと観客が気付ける仕掛けになっています。

冒頭では、「私たちのカンパニーは、障害のある人もない人もいるし、いろんな国の出身者がいるし、いろんな人種の・・・」と言い掛けて、出演者たちを改めて眺め、「人種はいろいろじゃなかった~」となる場面があります。

障害や人種などについて、本当は気になっているのに言い出せない、という現状を、ユーモアたっぷりに、ちょっときわどく、あぶり出していく作品です。

小難しくは全くありませんが(観客からは笑い声や掛け声・話し声がたくさん出ていました)、賢い作りの作品で、見る方も頭を使います

パフォーマンスの後のトークでは、次のような話がありました。

・必ずlost in translation(翻訳によって失われる)は起こる。
・分からない言語が聞こえてくると、分かろうとして、話す人の言葉や話し方や体全体から熱心に聞き取ろうとする姿勢になるのが、いい。
・出演者の自伝的な内容だと、観客とのつながりが生まれやすい。
political correctness(政治的な正しさ)を置き換えている。
・話し合いを通して作品にしていった。
・何度か上演しているが、公演ごとに少しずつ違う。
・質疑応答:メンタルヘルスのようにvisibleではない(目に見えない、一見して明らかではない)障害を、このようなパフォーマンスでどのように表現できるか?回答は、メンタルヘルスがこのような形であまり表現されていないのは確かにその通りで、しかし、どうやってできるかとなると答えるのは難しい、とのこと。
・質疑応答での感想:身体障害者を見てはいけないと通常はいわれているが、このような舞台では存分に見ていいというのが興味深い体験だった。このコメントに対して、出演者のローラさんは、気になった人のことはじっくり見ます、それが私です、と答えていました。

▼Candoco「Let's Talk About Dis」について(英語)

▼Candoco「Let's Talk About Dis」トレイラー

https://vimeo.com/230425079

▼Candocoのサイト(英語)

http://www.candoco.co.uk/

▼CandocoのTwitter(英語)

▼Hetain Patel(ヘテイン[ヘテン]・パテル)氏のサイト(英語)

▼Hetain Patel(ヘテイン[ヘテン]・パテル)氏の「TEDGlobal 2013」動画(英語、日本語字幕付き):
ダンサーと一緒に出ていて、スピーチというよりパフォーマンス。中国語やインド訛りの英語を話したり、2人で踊ったりと、かなり面白いです。人をまねると、まねをしきれないゆえに、自分というアイデンティティーがより明確になる、という話。

▼南村千里氏のサイト(日本語、英語版もあり)

イギリスの劇場で見掛ける観客の「人種」

Candocoのように、言いにくいことも言おう、ということで、イギリスの劇場に行ったときの観客の「人種」について。

今回の旅行では、マンチェスターの3カ所の劇場で公演を見ました。1カ所はこの記事で紹介しているSICK! Festivalの公演、残りの2カ所は、現代的な演出のシェイクスピア劇と、シェイクスピアを題材にした若々しい「二次創作」的なミュージカルです。

ロンドンは、イギリスの中でも特殊な環境の大都市で、もう結構前になりますが、ロンドンでもミュージカルを見たことがあります。スコットランドのエディンバラでも、ストリートプレイの演劇、コメディー的なパフォーマンス、ミュージカル、コンテンポラリーダンス、バレエ、オペラを見たことがあります。

いずれの街のいずれの劇場、公演でも、街の人口と観光客に占める東アジア系の人の比率に比べて、劇場でのそれは低い(少ない)と感じました。イギリスでも、東アジア系の人の多数を占めるのは中華系の人だと思いますが、美術館や博物館では彼らを多く見掛けます。

今回のマンチェスターの劇場では、いわゆる非白人に見える人として、少数ながら南アジア系やムスリム(キリスト教徒)の人はいました。でも、東アジア系の観客は、学校の団体客として来ていた学生1人を除いて、見つけられませんでした。

もちろん、たまたま目にしなかったということは大いにありますが、今回のSICK! Festivalのように、障害の有無に関わりなく人々が集って芸術に触れているのを体験すると、アジア系の障害のある人はこの街でどうしているのかなあなどと考えます。

そして、日本の劇場で、車いすに乗っている人を見掛けることはあるものの、車いすを使っている人や他の障害がありそうな人、東アジア系(多数が日本の人)と少数の白人の人以外の人を、決して多くは見掛けないことに思い至るのです。

日本でも、多様な人たちに来てもらおうと工夫や試みを重ねている劇場や企画がありますが、そういった活動をもっと広げたいですし、そのために、一観客としても、何かできることがあればしたいと思っています(でも、できていません・・・)。

人々の障害者に対する見方をあぶり出す演劇「Still No Idea」

9月20日(金)19時、21日(土)20:30に、The Lowryで公演。上演時間は約60分。

同じ髪型で、一瞬姉妹にも見える、イギリスのLisa Hammond(リサ・ハモンド)氏とRachael Spence(レイチェル・スペンス)氏による2人芝居です。舞台上に手話通訳の男性が1人いて、2人の言葉を通訳します。

Lisaは、ウィキペディアによると、現在36歳、身長124センチメートル。歩くこともしますが、痛みがつらいときもあるので、車いすも使います。上演の中で、「私が立ち上がって歩くと、見る人はみんな驚く」と話していました。Rachaelは、Lisaと同じくらいの年齢だと思われ、健常者のようです。2人は脚本の共同執筆もしています。2人とも俳優でもあり、LisaはイギリスBBCのテレビドラマ『EastEnders(イーストエンダーズ)』にも出演しているそうです。

この作品「Still No Idea」(直訳は「いまだアイデアはない」)の冒頭で、2人は観客に語り掛けます。2人でお芝居を作ろうと思ったんだけど、どんな劇にするかアイデアが浮かばなかったから、街に出て、行き交う人たちにアイデアを出してもらうことにしたんだ、と話すのです。

街の人たちからは、どんなアイデアが出たのでしょうか?2人はそのときに人々が話したことを録音音声で流し、同時に、舞台後方のスクリーンには文字でその言葉が映し出されます。この街頭インタビューは実際に行ったものと思われます。9年ほどの時を経て2回行い(これが事実かは分かりませんが、少なくともそういう設定でした)、人々がその場で作った話の内容を順番に、実際に2人が演じていきます。

LisaとRachaelに、「私たち2人が出演する劇を作るとしたら、どういうストーリーがいいと思うか」と聞かれた人々は、2人の関係を「友人」や「姉妹」と想像しました。Rachaelは「おとなしそう」と多くの人から言われ、Lisaは「生意気そう(cheeky)」と言う人もいました。

インタビューから作られたある場面には、Lisaが「cheeky face(生意気な顔つき)」などと歌いながら踊るミュージカル仕立てのものがあります。ある人が、「現代版ドジャーを演じられるんじゃない?」と言ったからです。ドジャーは、ミュージカル『オリヴァー・ツイスト』の登場人物の「少年」です。

1回目のインタビューで出たアイデアから演じられた長めの劇中劇では、Rachaelが男性と出会ってデートしますが、その人が実はひどい男で・・・という設定。Lisaはほとんど見ているだけで、たまに出番があったと思ったら、「電話をする」役回りです。発想を話として聞くよりも、実際に演じられるのを見る方が、どちらが「メイン」と見なされているかがくっきりと分かり、まさに一目瞭然です。

どうして「障害者」は舞台で活躍できないの?そんなのおかしい!1回目のインタビューから9年もたてば、人々の意識も変わっているはず。そう思った2人は、再び街頭インタビューを行い、今度は、前の人が描いたストーリーの続きを次の人に語ってもらうというスタイルで、1つの物語を人々に作っていってもらうことにします。

今度の物語では、Lisaが大活躍!ほぼ動き回りっぱなしです。でも、1つ問題がありました。Lisaが演じるよう人々に言われたのは、あくまでも「障害者の役」だったのです。

Lisaには、「障害者ではない、普通の人の役」のオファーが来そうになったことがありました。でも何年も待たされて、結局実現しませんでした。「上の人たちとか、人々」が、「障害者が健常者の役を演じる」ことを「どう思うか」が問題となったためです。という一連のシーンが演じられました。

こういったシーンは全て、シリアスなテーマを扱っていますが、大いにユーモアをもって演じられました。しかしラストに近くなって一転、黒いスクリーンに、人の名前(仮名のファーストネーム)と年齢、そしてその人がどういう状況で亡くなったかの短い記述が、次々と映し出されていきます。多くの人が、障害があって社会保障を受けていたのに、(政府の方針が変わって)「fit for work」(働ける)と判断され、それまで受け取っていた手当などが打ち切られて、自殺したりしています。日本でも、障害や介護の認定の基準が急に変わり、受給額が下がっている人がいることを、思い起こしました。

Lisaは観客に語り掛けます。disabledの(障害がある)人は決して主役や中心人物になれない。そして、中心でない人は、何かあると真っ先に、簡単に下ろされる、切られる。中心になれたとしても、常にdisabledとしてだ。

涙が出ました。私もきっと、障害のある人に「障害者」としての役を押し付けている。スクリーンに映し出された人たちへの処遇や彼らの死をひどい、むごいことだと思うのに、自分が他者から「女性」「アジア系」ではなく「人間」として見られたいと願っているのに、自分は障害のある人をまず「障害者」として認識しているのではないか?

それまでも自覚していなかったわけではありませんが、この演劇では、このことを強く突き付けられました。自分は最低だと思って、泣きました。自分も社会も変えなければいけない。この作品には、ものすごいパワーがあります。

LisaとRachaelは糾弾しているわけではありません。ただ強く訴え掛けているのです、高い演技力とユーモアと真の感情と社会の現実でもって。そして何より、2人の間にある確かな信頼と強い友情でもって。

せりふやユーモアを全ては理解することができなくて残念でしたが、観客からは大きな笑い声や「Yes, yes.」(そう、その通り)という賛同の相づちが絶え間なく発せられていました。

「Still No Idea」を見たら、この状況を変えなければ!ときっと思うでしょう。芸術には、人を、社会を変える力がある。そう信じさせてくれるパフォーマンスでした。

▼Lisa Hammond & Rachael Spence「Still No Idea」について(英語)

▼Lisa Hammond(リサ・ハモンド)氏とRachael Spence(レイチェル・スペンス)氏について(英語)

▼Lisa Hammond(リサ・ハモンド)氏のインタビュー(英語)

▼Lisa Hammond(リサ・ハモンド)氏のTwitter(英語)

▼Rachael Spence(レイチェル・スペンス)氏のTwitter(英語)

音楽とダンスを通して観客とパフォーマーが一体化する、British Paraorchestra「The Nature of Why」

9月21日(土)15時と19時に、The Lowryにて公演。上演時間60分。

作曲:Will Gregory
振付:Caroline Bowditch
指揮:Charles Hazlewood
演出:Caroline Bowditch、Charles Hazlewood
助成:Arts Council England

目が見えない、あるいはそうでなくても使うことができる、オーディオガイドを、ヘッドホン、イヤホンで提供。私は非常に興味があったものの使いませんでしたが、劇場内の2階にいる1人の方が、パフォーマンスを見渡しながら、同時通訳者のように、ひっきりなしにマイクに向かって、おそらくこのオーディオガイド用に、話していました。

この作品「The Nature of Why」(直訳は「『なぜ?』の本質」)の大きな特徴の一つは、演奏者、ダンサー、シンガー(歌手)の出演者が観客の中に入り込んでパフォーマンスを行うこと。劇場内は、周囲に客席がありましたが、中央に広い空間があり、観客はその空間で立って動き回りながら鑑賞します。

観客の中には、車いすに乗っている人もいましたし、立っているのが大変な人は椅子に座って見ることもできるようになっていました。また、赤ちゃん連れの人もいて、赤ちゃんがぐずったときにはいったん劇場の外に出て、落ち着いたら戻ってくるのも自由です。子どもやその保護者が、床に座ったり、寝転がったりしながら、鑑賞している場面もありました。

もう一つの特徴は、楽器演奏、歌(声)、ダンス(コンテンポラリーダンス)が融合していること。3者が交流しながら、ダンサーも声を出してリズムを取ったり、演奏家やシンガーも体を動かしてダンスに加わったりして、独特な芸術スタイルを生み出しています。

British Paraorchestra(ブリティッシュ・パラオーケストラ)は、世界で最初の、障害のある演奏家たちによるプロの大規模なオーケストラだそうです。イギリスの指揮者Charles Hazlewood(チャールズ・ヘイズルウッド[ヘイゼルウッド])氏が、2012年ロンドンオリンピック・パラリンピックを前にした2011年11月に結成。同氏が芸術監督を務め、イギリス・ブリストルを拠点に、イギリス各地などで演奏しています。

今回の作品のパフォーマーには、目の見えない演奏家やシンガー、車いすに乗っている演奏家や、片手のないダンサーなどがいました。

「The Nature of Why」は、理論物理学者のRichard Feynman氏の「なぜ」に関するインタビューにインスピレーションを得て制作されました。作品の所々で、そのインタビュー音声が流れ、上部に設置されたスクリーンに、その音声のトランスクリプト(書き取ったテキスト)が字幕で表示され、それを手話で伝える人も同時に映し出されます。その映像が終わると、どこからともなく音楽や歌やダンスが立ち上がり、観客はいつの間にかパフォーマンスのただ中に心地よく巻き込まれていくのです。

インタビューの内容は、「どうして人はこういうことをするのだろうか?」「それを、例えば宇宙人に理解してもらうために一から説明するとしたら、どう言えるだろうか?」といった内容が含まれていたと思います。全く異なる価値観やバックグラウンドを持つ相手とどう分かり合えるかを探るような。でも、この英語インタビューがよく分からなくても、パフォーマンス全体を楽しめます。

音楽については疎くて語る言葉が見つかりませんが、古典的な楽器を使っていても現代風で、不協和音っぽい、金属っぽい音があっても、風が吹く草原にたたずんでいるような、体を優しく包まれているような、心地よさを感じました。歌もソプラノの高音が素晴らしく美しくて、その音にどこまでもついていきたくなります。夢の中にいるみたい。

ダンスは、複雑な動きではなく、観客の間に入っていきながら、観客に触れたりもして、徐々に観客も加わっていき、誰がパフォーマーで誰が観客なのかが分からなくなる瞬間があるくらいです。

コミュニティダンスやコンタクト・インプロヴィゼーションを思わせる踊りが見られました。例えば、1人がひっそりとどこかへ移動し、他の人たちがその人がどこにいるかを見つけて、その人にどんどんくっついていったり、1人のダンサーが観客の子どもに促して、ダンスの動きを1つずつ行い、子どもがそれをまねていく、ということもしたりしていました。

最後は、ますます多くの観客を巻き込んで、私もダンサーに促されて手をつなぎ、そのダンサーと、観客の車いすに乗っている脳性まひと思われる人と、一緒にくるくる回って踊りました。曲が終わってみんなでぴたりと動きを止めたとき、近くにいた観客が「Beautiful」(美しい)と言葉を発したのが聞こえました。まさに美しい瞬間。

世界は美しい、人間は素晴らしい、生きていることはそう悪いことじゃない、生きていてよかった、そう心から思える、パフォーマンスでした。とても幸せな気持ちになって、涙が出ました。

東京オリンピック・パラリンピックを来年に控えた日本でも、ぜひこの作品で来日公演してもらいたいです。

そして、今回の旅を終えて、日本に帰国する飛行機の中で、驚きの出来事がありました。近くの席に、「The Nature of Why」で演奏なさっていた、British Paraorchestraのメンバーであるヴィオラ奏者のTakashi Kikuchi(菊地 崇)氏が座っていらっしゃったのです!

この方には公演中も注目(注聴)していたのですが、そばには行けなくて、遠目では特にアジア系の方とは認識していなかったのですが、公演後、British Paraorchestraのサイトを見て、日本のお名前だったことに気付きました。それで、飛行機に乗ったときは、目の見えない方で、楽器ケースらしいものを持っていらっしゃる方がいるとは思ったのですが、その時点では菊地氏とは分からず、でも、もうすぐ日本に着くという時点になって、急に「もしかしたら!」とぴんときました。

それで、勇気を振り絞って、無謀にも話し掛けたら、ありがたいことにお話ししてくださいました!非常につたない言葉ながら、直接、公演の感動をお伝えすることができて、うれしかったです。普段はロンドンにお住まいで、British Paraorchestraには、ロンドンパラリンピックをきっかけに加わったとのこと。物腰や話し方がしっかりしていて、気品があり優雅な方でした。

と思ったら、今インターネットで検索してみたら、東京藝術大学で博士号(音楽)取得、イギリスのロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージックで日本人初のヴィオラ教授法資格を取得している方でした!(ひえ~~、知らないって恐ろしい・・・)(※下に関連リンクを掲載しています)

▼British Paraorchestra「The Nature of Why」について(英語)

▼British Paraorchestraのサイト(英語)

▼British ParaorchestraのEnsembles・メンバー(英語)

▼British ParaorchestraのTwitter(英語)

▼British Paraorchestraの短編ドキュメンタリー映画「Towards Harmony, A Musical Integration」の予告編(英語)

▼British Paraorchestraによる音楽「True Colors」(英語)

▼British Paraorchestra創設者のCharles Hazlewood氏によるTEDxBrussels動画(英語、日本語字幕付き):
Hazlewood氏は指揮者で、脳性まひのお子さんがいることと、世界中のオーケストラで指揮してきて、片手の指で数えられるほどしか障害のある演奏家に会わなかったことから、ロンドンパラリンピックでイギリスに注目が集まる機会に、British Paraorchestraを作ったそうです。動画の後半では、初期メンバー4人が初演となる演奏を披露。

▼Charles Hazlewood氏のサイト(英語)

▼Charles Hazlewood氏のTwitter(英語)

▼ヴィオラ奏者の菊地 崇氏による「トニカ通信第7号」への寄稿「音楽に見る文化教育の一端」(日本語)

▼ヴィオラ奏者の菊地 崇氏の博士論文「ヴィオラの音の性格に基づく演奏表現の研究 : ヴィオラの音質を引き出す演奏技巧の探究 : アレッサンドロ・ロッラのヴィオラ作品」(日本語)

▼ヴィオラ奏者の菊地 崇氏が登場する「2016 年度(第 36 期)ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業 ジュニアリーダー育成グループ研修 (視覚障害者ユースプログラム) 報告書」(日本語):
引用「菊池さんは、「つねに人から見られている ことを意識しておくことが大切」とおっしゃり、 ご自身も美しい姿勢や動きを身に付けるために、 バレエ教室に通われたそうです」

https://www.ainowa.jp/news/2017/pdf/1704_04.pdf

▼British Paraorchestraに触れている「artscape(アートスケープ)」の記事「交差するアイデンティティと「障害者アート」執筆:田中みゆき(キュレーター)」(日本語)

一般の人々が生と死の個人的体験を語る映像インスタレーション、Mats Staub「Death and Birth In My Life」

9月18日(水)~10月5日(土)に、マンチェスター大学の美術館The Whitworth (Art Gallery)で展示。

映像を流すテレビが複数あり、それぞれの前に幾つかのソファや椅子が置いてありました。スタッフが1人いて、ちょうど上映が始まった作品のところに案内してくれました。

Mats Staub氏はベルリン在住のアーティストで、本人のサイトによると、1972年スイス生まれ。

展示されていた「Death and Birth In My Life」(直訳は「私の人生における死と生」)は長期プロジェクトのようで、今回は、マンチェスターと、南アフリカのヨハネスブルグで撮影した12本の映像が上映されていました。1本40~60分ほどで、2人の人が互いに、自分が経験した身近な人などの生と死を語ります

私は、マンチェスターの「Avril & Judy」という2人の映像の冒頭部分を視聴しました。自分の生い立ちや、病気になりながら家で最期を迎えることを望んだ親の在宅医療・訪問看護や、その親の最期の時について話すのを聞きました。

作品を見る前は、悲しくなったり気持ちが乱れたりするかと少し心配していたのですが、私が見た映像に関しては、意外にも、逆に心が穏やかになり、安らかな気持ちになりました。もちろん、悲しくはなるのですが、2人が、親を看取った体験について、満ち足りた思いで、優しい気持ちで振り返っているためだと思います。

身近な人や大切な家族を失うのは悲しくつらいことですが、このように話し合ったり、その話を聞いてこれから起こるそのときのことを想像したり、その話について家族と話し合ったりできるといいなと思いました。この作品では、2人が互いの体験を語り合うスタイルになっているのがポイントで、喜びや悲しみの「共有」がテーマの一つだと思います。

時間があれば、映像をもっと見たかったです。

▼Mats Staub「Death and Birth In My Life」について(英語)

▼Mats Staub「Death and Birth In My Life」トレイラー(英語)

▼Mats Staub氏のサイト

SICK! Festivalの第1週には他にも、私は見られませんでしたが、高齢の親と娘が共演するUrsula Martinez「A Family Outing ー 20 Years On」(直訳は「家族のお出掛け―20年後」)、コメディアンが脳性まひの父親としての子育てを語るLaurence Clark「An Irresponsible Father’s Guide to Parenting」(直訳は「無責任な父親のための子育てガイド」)といった公演がありました。

▼Ursula Martinez「A Family Outing ー 20 Years On」トレイラー(英語)

数日間だけでしたが、健康・医療・福祉を扱う芸術祭であるSICK! Festivalの、障害や病気や終末期医療をテーマとする第1週に行われた公演や展示を体験することができて、よかったです。

今後も、Socially Engaged Artソーシャリー・エンゲイジド・アート、社会に関わるアート、SEA)やコミュニティアートCommunity Art、アーティストと一般の人々が共に行うアート活動)といった観点から、こうしたアートやダンスの動向を追っていきたいと考えています。

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