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【覚悟:自分の生い立ちや、複雑性PTSD のことを発信することについて】

私には、複雑性PTSDという持病があります。
そして、この病名から推察できる通り、わたしは虐待を受けて育ちました。

私が自分の生い立ちや病気について発信すること。そこに至るまでには葛藤がありました。

まず、私自身が周囲からどう見られるか、ということをめちゃくちゃ気にする人間であるということ。(これは家庭環境の影響が大きいです)

そして二つ目は、私の子ども達が、周りからどう見られるだろう、ということ。

こうして公に発信し続けることで、いつか、子どもの友達のお母さんやお父さんに知られることもあるかもしれない。

そのときに、○○ちゃんのお母さんって、病気なんだって。とか、○○ちゃんおじいちゃんおばあちゃんいないんだって、とか。(実際には夫方の祖父母は居ます)

そういう視線に晒されたりしないかな、可哀想がられたり、みじめな思いをさせてしまわないかな、と思いました。

私自身、今まで、適応障害、うつ状態、と診断されてきて、そして最終的に複雑性PTSD という診断がつき、その間周りからの目に傷ついてきたことがゼロではありませんでした。

そこに偏見があったかどうか、はその人にしかわからないけれど、少なくとも、私自身が『偏見』の目で見られているかもしれないと感じることは様々な場でありました。

だから、人の集まるところにいくのは怖かったし、自分の生い立ちや病気について話すのも怖かったし避けていました。

だけどそうやって過ごしていて、誰にも心を開けていないことに気がつきました。

私の生い立ち、私の病気。
それを、私自身と切り離すことは、どうしたって無理だったのです。

それを隠して、表面的に取り繕って関係を築いたところで、そこにはなんとも言えない『表面的』な関係しかなくて、【わたし】を知ってもらっている、理解してもらっているという感覚は生まれることがなかったのです。

むしろ、こうして時間を一緒に過ごしていても相手はわたしのことを理解してはいないという虚無感が、心の奥底に生まれていました。

私は、私の生い立ちや病気が、わたしのアイデンティティの一部であることに気がつきました。

わたし、と生い立ちと病気。それは切り離すことなどできないものだったのです。

子ども達のことを考えたとき。
私がどうであれそれは子ども達が【どう感じるか】が何より大切だと思っています。

だけど
・私が生い立ちや持病を隠して、恥じて、当たり障りなく生きようとしている人生
・生い立ちや持病をありのままに受け入れ、それさえも自分の人生として、自分らしく生きるために向き合っていく人生

この2つを比べたときに、私が子ども達に見せたい姿は、どうしたって後者だなと思ったんです。

病気であることを隠して、機能不全家庭に育ったことを隠して、表面的に、うまくやろう、とするよりも

私の人生には、こういうことがあって、今こういうものを抱えていて、だけど私は、自分の人生幸せに生きたくて、こうやって生きてるんだよ、と

そういう姿を、子ども達には見せていたいと思ったんです。

その上で、子ども達がどう感じるかは、やはり彼女達の気持ちだし、もし子ども達がそれを嫌だと感じたときには、誠心誠意彼女たちの気持ちを聞いて、私の気持ちを伝えて、ということしかできないと思っています。

でも、私が【どう在りたいか】を見つめたときに出た答えは、覚悟して発信すること、でした。

とはいえ、この葛藤を乗り越えるときも、強く『こうする!』と思えたわけではなくて、悩みながら、不安を持ちながら始めました。

そうして少しずつ、不安を減らしていけたのは

すごく救われた、と言ってくださる似た境遇の人
知れてよかったと言ってくださる方々
生い立ちも、PTSD も『恥じることなんかじゃない。あかねはそれを乗り越えてきたんだから、誇ることだよ』と、いつもそう言ってくれる夫のお陰です。

それでも、活動してると結構ぐさっとくる言葉を受けとることもたまにあるけど、でもやっぱり、私はわたしが思うことを、意思をもって発信していきたいなと思います。

そしてできれば、家庭環境に悩んでいたり、病気を弱さと思っていたり、自責の念にかられている方に

『大丈夫』って希望を持ってもらえたらいいなと思っています。

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