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自分を表現し、遊び心を持ちながら学ぶ。イタリア発祥の教育『レッジョ・エミリア・アプローチ』

子どもは100の言葉を持っている
(そして もっともっと何百も)
けれど 99は奪われている

学校と文化が 頭と体を切り離す
彼らは子どもにこう言うのだ

手を使わずに考えなさい
頭を使わずやりなさい
よく聴きなさい 
しゃべってはいけません
楽しまずに理解しなさい


イタリア発祥の教育法「レッジョ・エミリア・アプローチ」。その創設者の一人、ローリス=マラグッツィさんの詩の一部です。

ちょうど今、知人がイタリアにあるレッジョ・エミリア・アプローチの実践校を見学中で、そこでの体験を共有してくれました。

以下、知人の文章。
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イタリアから世界に広がっているという、アート教育をしているインターナショナルスクールReggio children を見学に行きました。

日本からもたくさん見学者が来るとの事ですが、感想としては、当たり前の事をしている場所だった。というのが正直なところです。

しかしながら、この当たり前ができていないからこそ今アート思考などが求められて来ている理由かと思いました。

話の内容はイタリア語だったので、言語理解は10から15%ぐらいですが、内容については、ほんまに誰が聴いてもあたりまえと思うのではないかということでした。

子どもたちに、実際にいろんな素材を用意して使わせてみる。
自分で使い方を探索させてみる。
物を作ったり、絵を描いたり、
使い方のわからないものを渡してグループでどのように使うかを考えたり、、、

子供は可能性のかたまりだと。
それをどのように引き出すのかという事でした。

絵を描くなかで、いろんな物を触るなかてで、算数や科学、物理法則などを身体で学んでいく。そのためにハサミを使ったり、尖ってる素材も使わせているような感じでした。斜めや波形にきったり、穴を開けて懐中電灯で照らしたり、ダンボールを濡らしてみたり、水に浸けたり。

ただ、なんでもそうかもしれないですが、当たり前を当たり前にすることが大変なんだろうな。っと。

ハサミを使うのは危ない。尖ったり角が有ったら危ないと触らせない。
怪我をしないようにするということは経験できないということ。
いろいろ試す幅が狭くなること。
ただ、怪我を恐れずいろいろ挑戦させて経験を積ませようとすると、怪我をした時に上司や保護者から苦情が出たりしてどんどんできる事が少なくなっていく。
または絵の具を使うと服が汚れる、泥遊びをするとバイキンがつく、新聞紙やダンボールで遊ばせるとゴミになって片付けが大変。

確かにそれらは確かだし、大変。
だからこそ、当たり前を当たり前にできる環境というのは大切にされて、それができる環境を作っているからこそ、そして体験から学ぶ事がないというのは日本だけでなく世界的な共通課題だからこそ、この学校の活動が世界に広がり世界から見に来る人が多いと思いました。

ロンドンから来ている方とも話しましたが、ロンドンでも日本と同じような教育がされていて、この学校は普通と反対で驚いたと。

そしてイタリアのプライベートスクールで働いているという女性は、子供たちはへたしたら大人より習い事で忙しく自分の考えで動く時間を持てていないと言っていました。もちろん学校での環境が違うとも言ってました。
これは学校という世界的な社会システムの問題かとも思いますが。

だからこそ大人に対してのアート思考などの考え方が出てきて、自分の考えを表現するのがあたりまえでなくなっている大人が、自分の考えを当たり前に表現できるようになるための一つの解決法として出てきているのかなと感じました。

幼稚園、保育園までは自分を表現するのが、遊び心を持つ事が勉強なのに、小学校から型にはまる、はめる教育になるのも程度の差こそあれ同じように感じました。

その型に長年はまって自分を出して話しす事に違和感を感じたり、自分なりの表現の仕方を忘れてしまった大人が、再度自分を表現する事を学ぶためのきっかけ、それがアート思考なんだと思いました。

このReggio children で3ヶ月研修したという人がデザイン思考を学んだらしく、「サンフランシスコに最終コンペティションがあるんだ」と、友人を介して会った時に言っていました。起業したのか、会社のプロジェクトかはわかりませんが、きっかけが有れば、人は自分を出していいと思えるのかと。

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以上。

今の日本の学校は、自分で考え表現することや学びを楽しむことはあまり大切にされていないと感じます。

なぜこんなにも同じ教育が何十年も続いているのか。目の前にいる子どもを置き去りに、なぜ日本の経済や未来に対する不安をベースにした教育がなされているのか。

正直なところ、特別支援教育を充実させるのも、なんか違うと思ってしまいます。今までと同じ教育をしていて、そこについていけない子どもを個別にフォローするというのは、何かが違う。やらないよりマシ、という感じ。

と書くと、語弊があるかもしれません。特別支援教育の充実によって、現に多くの子どもが学校で過ごしやすくなっているし、とても意味のあることであり、大きな一歩だと思います。けれど、これまでやってきた教育をそのままにしていい訳ではありません。

支援を必要としていなくても、可能性を奪われている子どもはたくさんいるんです。

これまで子どもたちに「やらせなければいけない」としていたことをすべて真っ白にして、すべて無くして、目の前にいる子どもが思いっきり自由に学べる環境をつくること。それが一番大切なことでは、と思います。



大人たち。忘れてしまったんでしょうか。
かつて自分も夢中で遊んだこと。何でもないものを色んなものに見立てて遊んだこと。自由に物をつくったこと。

そして、学校に行って、ルールや規則、やらなければいけないことや守らなければいけないことにまみれて、色んなことがつまらなくなっていったこと。

そして、社会に出たら、再び子どもの頃にやっていた「自分を表現すること」が大切だと気づくんです。


私は、時々そのことを忘れそうで怖くなります。

再び教員として学校に戻ったら、本当に忘れてしまいそうで、麻痺してしまいそうで、怖くて戻れません。

その恐ろしさに耐えられなくて、私は教員を辞めたんだろうな。

本当に大切なことを子ども達に伝えていくことは、教員として学校にいながらもきっとできる。現にやっている人、やろうとしている人はいる。

けれど、学校の枠をはみ出す破天荒な教員になることは、私にはできませんでした。



子どもの可能性を平気で奪う教育が、今日もなされていることが恐ろしくてたまりません。


でも、世界にはレッジョ・エミリア教育のように子どもの可能性を広げる教育をしている学校もあります。

今年は行けないけれど、来年、私もイタリアに行って、Reggio childrenの実践を見に行こうと思います。


最後までお読みいただきありがとうございます(*´-`) また覗きに来てください。