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#45 国がゆたかになれば、みんなもゆたかになるんだよ。

#1コマでどれだけ語れるかチャレンジ
#聞きたくない事かも
#全て個人の主観です

自分の出身地の事が、大好きな人がいる。

自分の生まれ育った、思い出のある地域が好きである。という事は、一般的にも何もおかしくはない。自分が所属する場所の事を好きであるというのは、良いコトだと思う。誰だって、自分の居場所が欲しいし、それは守りたい大事な場所であるべきだ。

だから自分の居場所が盛り上がれば嬉しいし、居場所が盛り下がれば悲しい。盛り上がれば景気も良くなるし、盛り下がれば景気は悪くなり衰退するだろう。

もし自分の居場所を盛り上げたいと思った時、自分には何ができるだろうか。地域貢献というやつについて考える。こんな僕にもきっと何かできる事があるハズ。そんな風に考えていたこともあった。

僕は「自分の地元が好きか?」と聞かれたら、「いつか好きになりたい」と答える。今は「嫌い」だからだ。

片田舎である僕の出身地は、10年前のある事故から世界的に見ても有名だ。マイナスのイメージを持った世界の忌地、負の遺産となってしまった。まぁここまで言えばすぐわかると思う。

だが、僕はその理由で嫌いなのではない。そんな事で嫌ったりはしない。むしろ郷土愛は増したと思う。今も住んでいるし。

ではなぜ嫌いなのか、それがどういう理由かを説明するには、少し昔話を含めてしなくてはならない。

世界的に注目された事故は誰かの人為的な過失が重なってしまった部分もあったかもしれない。しかし、天災がきっかけになった今回のようなケースは、ある意味では仕方の無い事だ。

そもそも「事故」とは、いついかなる時でも起こる物だ。

100%で防げる事などあり得ない。受け入れるしかない。想定外の事は誰にでも起こる。

これは一般論であり、人類史においても紛れもない事実であり反論の余地も無い。

だからこのレベルで「防げたはずだ」なんてのは時間の無駄でしかない。

とはいっても、もちろんやりきれない気持ちがあるのも、理解はしている。だから、せめて失ったものを何かしらで埋め合わせしてほしいという気持ちは、当然と言えば当然なのかもしれない。

実際、そのための施策が行われ、それで助かった人も多かった。

そして、当初はそれはあるべき姿に見えた。

突然暮らしを奪われた人が、どのようにこの先の生活を復興していくか、という事は大命題だった。そのことに予算が使われても、まるで足りないように感じた。

補償を元手にたくさんの人たちが、たくさんの事業を行った。地域にはブーストが必要だったし、地域のこれからの為でもあった。活気づけるためには、何でも行う必要があった。

それは理解できる。行動が無いところに、結果は無い。冷静に見て、何の勝算もない事でもやって見るしかなかっただろうし、皆が何かをやりたかった。

そんな訳で、最初の3〜4年くらいは皆が精力的に、前を向こうとしていたと思う。

だが、徐々におかしくなりだした。

その歪が見え出したのは、もらえるお金には差があったことが発端だったと思う。

例えば補償金は隣同士なのに道路一本挟んだだけで、大きくその額は違った。それは不公平感という種を撒く結果になった。

やがて分断が起こり出した。隣近所だった人は、貰った人と、より貰った人に分かれた。妬みや嫉みが生まれた。さらなる補償を求めて裁判まで始まった。

そして世の中の視線は「何とか応援しよう!」から、「もう貰ってるくせに、何年、そしていつまでやってんだ」に変わっていった。質が悪いのは、そのことにこの地域の人たちは気づいていないフリをし続けているという事だ。ずっと、被害者でいようとしている。被害者ビジネスと言う不名誉な称号まで出来た。

経済では、地域の事業を守るという名目で、決まったところに優先的に仕事が回されていった。事故前と事故後では、売り上げが何倍にもなった企業があった。地震で壊れた物はたくさんあったが、既得権益は壊せなかった。

新規のビジネスが根を張れるような余地は、そもそもこの排他的な地域にはなかった。だからビジネスチャンスなどではなく、元の体系だけがサバイブした。

外から来た企業達も気が付き始めた。地元企業と組まないと排除されるぞ。と。そして地元の企業と絡んで仕事をし出した彼らは、その地域のレベルの低さに辟易しながらも予算をかすめて行った。そしてもう搾り取れないとわかるとやがて撤退し始めた。

まるでバブルのように売り上げが伸びた地域の企業達は、有り余るお金をどうにかして増やしていくために、運用や投資の事だけを考え始めた。地域の事ではなく、数字上のお金が気がかりだったのだ。

しかし絶望的に知恵が足りなかった。

地域の企業の多くは、どこかの大きな企業の下請けが多かった。元々地域を引っ張っていくとか、そういう器でもなかった。だから新規性の無い、形ばかりの新規事業という名目の元に、税金も無駄遣いされていった。だが補助金は申請すれば公布された。だから止まって考える事も無かった。

いつしか公金を貰って事業をする事が当たり前になっていった。そして独自性なんてさらさらないのに、メディアはこぞってそれらを取り上げた。「新しい事が始まって、雇用も見込まれます。」というのがニュースのお約束だった。

事業継続性も問題だった。

必要に迫られない事業は、2〜3年で消えて行った。目の前で起こるそれらは、まるでどこかの金持ちの趣味の様だった。そして外からやってきた企業達は、思い入れも無い土地でうまく行かないと踏んだら、片付けもせずにいなくなっていく。

撤退した後の場所には、別の補助金と一緒に別の事業がやってきた。だが、次第にそれも少なくなってきた。次第に空き店舗・テナント・空き地が増えてきた。

それもこれも何が原因なのか。

この場所では、「発展性が無い」という事がはっきりしてきたからだ。

簡単に言えば、見限られたからだ。

元々、閉鎖的で事業を応援するというような気概が無かった。それは、本社があって沢山の雇用を生んでいるような会社が極端に少ないからだった。どこかの大企業の支店で働いて、首都圏に比べれば少ない所得でも暮らしていけたからそれでよかった。

つまり地域の産業(企業ではない)という概念が希薄なのだ。

というか、地域の産業こそが無い物だったのだ

地域の歴史的に見ても、そういう事だと理解している。

そういう状況なのに、補助金や給付金などで地域の下請け企業たちが潤いだすと、今までと同じ働き方をしているのに、人々の所得は増えて行った。景気が良いと錯覚してしまった。

もちろん個人としての「日々の努力」が無いとは言わない。真面目に、汗水を垂らして働くのは地域の良いところでもある。しかし、根本的な革新も無いままに、いたずらに所得が増えると、人は一体どうなるのかについて考えていなかった様に思う。

鯉たちに餌をあげると、水面にひしめき合って大きな口を天に向けて、エサが投げられるのを今や遅しと待ちかねる。その時、水中は鯉たちの動きによって泥が舞い上がり濁っていく。

この場所は濁ってよどんだ沼の様だった。それに気が付いて出て行った人もいるし、やってきた人がウンザリしていなくなったりもした。撒き餌に群がる仲間に入りたくないのだ。

もっとも濁った沼は、時間が経てば澄むかもしれない。しかし、本当に必要な事は、「水が入って来て流れていく」という事だった。もろもろをきっかけにして、革新的に変わる事が必要だったのだ。残念ながらこの地域では、それ以外に発展性を見込める物は無かった。

元々よどんだ沼に、水をいくら足してもキレイにはならない。汚い物と汚い水が、流れていく場所が必要だった。要は、自浄作用が働かなかったのだ。鯉は必要以上に肥えてしまい、より多くのエサを必要としている。

だから、ここに投資されたお金は、今のところ何の役にも立っていない。淀みに溜まっている。ほぼ何の意味も無いと言ってもいい。

もっとわかりやすく例えるならば、おしっこに水を足しても、それはおしっこだ。下水に流れなくてはならないのに、その水で暮らせと言われても無理だ。でしょ?

それでもまだまだ世界中からの支援が集まっていく。国は予算を積み上げていく。地域は予算を分配するだけでも大仕事になっている。発注する事に忙しくて、中身の精査まではいかないのだ。

繰り返しになるが、このまま与えられるお金を口を空けて待っている状況が続くと、この地域がどうなるのか。という議論がされ無いままに、いまも物事は進んでいると言える。

だが絶対に取り返せない、失った物への愛情を、お金や代替品で間に合わす事は出来ないのは言わずもがなだ。自然の摂理と言ってもいい。代替の物質的な施しは、一時の精神的な安らぎをもたらしたかもしれないが、失ったものを埋め合わせる物では無い。

そうなると最初から、いくら貰っても足りるハズが無いのだ。

こぼれたミルクを嘆いても仕方ないというコトワザがある。

覆水盆に返らずとも言う。

それでもそれを埋め合わせるために、より一層の物質的な物を求めだす。

より一層の予算が必要で、より一層の支援が必要になる。

だから言う、「まだ足りない。まだ足りない。まだ足りない。」と。

本当は足りているどころか、もう自分たちの器に入り切らない。

はみ出して、こぼれている。使い方もわかっていない。

こぼれた物を嘆いている。

それが外から見てもはっきりしてきている。そのおこぼれを得て、かすめ取っていく為に、外からの人がやって来ては消えていく。

だが、自分たちの有様を見ないふりをしている。

そして言う、「元の生活に戻りたい」と。

元の生活があんなんだから、この地域がこんなんだから、食い物にされているのに、なぜ元の生活に戻りたいのか。全く理解できない。賛同できない。

どう考えても、必要なのは革新や変化だ。(こんな事を言うと左みたいだけど)

チャンスはあったハズだ。コロナを含めれば2回くらいあった。

今、コロナで求められている事も同じだ。「元の生活に戻る」事ではサラサラ無い。これまで通りで、良いハズが無い。

そんな理由で、僕が、変わろうとしない何も始まらないこの地域で、下記のように言われても心が付いていかないのは不思議ではないハズだ。

てんとう虫コミックス第26巻収録「のび太の地底国」からの1コマ。

身を切ってリスクを取ろうとはしない地域で、税金の分配を貰う事に一生懸命になるのが「ゆたか」と言うならば、僕は願い下げだ。

断言する、このままでは、何一つとして実現しない。

危機感を覚えている。

だが、僕にも力も知恵も覚悟も無い。どう行動したらいいのかも、実はよくわからない。ただ分析しては、勝手に絶望に近いものを感じているだけだ。

そもそも地域の社会構造を変えるとは、地域の人の生き方を変えさせるという事だ。個人に世直しなんてできっこない。するべきで無い。

でも、このままでは地域はますますダメになってしまう。誰しもが見てみぬふり、盲目的にここは素晴らしいと嘯く。もう取り返しもつかない。

もはや地域や地域の生き方に頼らない生き方をするべきだ。

例え、本当は「好き」であっても、そこで求めれる生き方とは、別の生き方しかしたくないのであれば、いっその事「嫌い」でいたい。

地域(分配される税金)に依存せずして、「個人」としてどう立ち行くのか。

それを突き詰めなくては、どう頑張ったところで、とても「ゆたか」になんかなれっこない。

衰退あるのみだ。

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