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#12 ニガサナイ!カナラズ見ツケダシテ、スケジュール守ラセル!

#1コマでどれだけ語れるかチャレンジ

僕らは、時間に追われている。

現代に生きるという事は、いつだってやる事があるし、いつだって時間が足りない。なぜならば残念ながら誰にでもいつかは人生の幕を閉じる時が来る。だからこの限られた時間の中で何をどのように行うかが、所謂出来る人と出来ない人の差であるなどと言われている。そして、時間を無駄にしない為には、綿密な予定を立てる事が肝要である。とよく言う。というか、それが出来ないと人間じゃないくらいの扱いを受ける事もある。

僕は思う。この世の中で生きるのには、時間にルーズでいてはダメなのだろうか。予定を変更してはダメなのだろうか。と。

今日は、このコマを見ていただきたい。

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てんとう虫コミックス第3巻掲載「スケジュール時計」の1コマ。とにかく怖すぎである。雨に濡れる事をも厭わないその姿は恐怖であり、背景が普通の道端であることもギャップが効いている。このひみつ道具「スケジュール時計」は、使用者が作成したスケジュールを強制的に守らせる為に、どんな手段も厭わないというロボットである。のび太の怠け癖を直すために出された物であるが、スケジュール用紙をセットした人が、そのスケジュールを守らせられるという機能の為に、本編ではのび太ではなくドラえもんがその餌食となった。融通の利かないこの時計から逃げ出したドラえもんだったが、スケジュール時計は「ニガサナイ!」と予定への執着を見せているというシーンだ。

冒頭で僕は、誰しもが時間に追われていると言った。そしてそれを守れない時、人間じゃないというような扱いも受けることもある、と。つまりこれは、信用に関わる問題である。時間にだらしない人は、他の事にもだらしない印象を持たれる。

ここで考えて見たい。スケジュールを守れない時、実際には何が起こるか。

例えば「今日は一日、家の中で過ごす。誰にも会わないし、外には一歩も出ない。」というスケジュールであれば、よほどの事が無い限りは守れるかも知れない。だが、火事や地震などの天災が起きたらどうだろうか。家からは出ないといけないし、誰にも会わないのは無理だし、外に出なくてはならない。

「この休みの日は○時○分の電車に乗って、×時×分からの映画を見る。」と言うスケジュールだったする。しかし、もしダイヤの遅延が発生していたらどうだろうか。その為に冒頭の30分を見逃したら。もしくは、映画館の席がたまたま満席だったらどうだろうか。立ち見で3時間の超大作を見なくてはならないとしたら。そして、10分後の次の回まで待てば座って見られるとしたら。

このようにスケジュールとは違う選択肢を取ったとしても、「予定通りに行かなかった」と悔やむ人は少ないだろう。予定よりも状況に対応するのが自然だからだ。

つまりスケジュールとは「理想的な予定」であって、実生活上はこの理想と現実を折衷している訳である事が分かる。だが、これに他人が介在する場合は少し違いがでてくる。

家にいて誰とも会わないでいようとしても、突然、誰かが訪ねてきたらどうだろうか。居留守を使うだろうか。訪ねて来た相手は緊急な要件を持っているかも知れない。電車の遅れは自分の予定ではないが、日常的に起こり得る。または映画を見るのに、誰かと映画館で待ち合わせをしていたらどうだろうか。自分はスケジュール通りに来ても、相手がその通りに来ないかもしれない。相手は足が痛くて立ち見では無理だと言うかもしれない。

だから理想のスケジュールと、理想通りに行かなかった時の、もしこうなったらと言うB案的なスケジュールが求められる。つまり誰しもが「こうなった時は、こう。最悪な場合でも、こう。」と考えるべきではある。

もちろん、そのスケジュールが余暇の物であれば、述べて来たように融通が利く可能性は高い。しかし、仕事や公的な物だと難しい場合がある。予定通りに行くように下準備やリハーサルを行う必要があるかもしれないし、B案やC案ありきでそもそも進むという事も稀ではない。

と言う事は、「予定通り行かない」という事すらもスケジュールに入れて置く事こそが、本当に“出来る人”であるとも言える。これは「臨機応変さ」とか「咄嗟の対応力」とか「高い想定力・想像力」とも言い換える事が出来るかも知れない。そういう能力が、目まぐるしいこの社会では求められているのだと思う。

さてこれまで僕が言ってきたのは、現在社会の話だ。では、ドラえもんがやってきた「未来の国」ではどうなのだろうか。

技術の進歩に伴って、物事の更なる合理化が進んでいるであろう事が想像できる。また、タイムマシン(ドラえもんの世界では2008年に実現している)の存在と、誰しもがタイムトラベルをする時代という背景から、人間の持つ「時間」への概念が新たなるステージに来ているとも思われる。

過去を変えるのは「時間犯罪」であるとも言われており、それが故にタイムパトロールが存在しているが、ビジネスシーンでもそれは適応になる。あの時「A案」を選んだばかりに会社に損害が出たので、過去に戻って自分に「B案」の採用を薦めた。としたら、これも未来を変える事になるので、タイムパトロールの取り締まり対象である。このあたりは「T.Pぼん」でも詳しく語られているので興味がある方は参照していただきたい。

とは言え、予測や予想という技術(例えば、タイムテレビやあらかじめアンテナなど)も進歩している為、タイムパトロールの取締対象でない程度の未来予知はあると考える事ができる。

と言う事は、未来の国でのスケジュールの在り方と言うのも、現在社会とは大きく変わっているのではないだろうか。

未来の国ではひみつ道具のような物を使って、予測や予想、予知と言った技術を使用した上で立てたスケジュール通りに動く事で、本人の望む一番いい結果になる、またはそれに近い結果が出せる。のではないだろうか。

良く、「ドラえもんの中に出てくる人工知能は、ハチャメチャでイカレている。」という話を聞く。もちろん、これはギャグマンガだからそのトンデモなロボットたちや道具が面白い訳だ。しかし、これまで僕が「#8 うそをつけ」の時にも少し触れていたが、未来の国の道具には、なんらかの目的があって作られていると考えられる。(良く分からない事の方が多いけど)

もしかしたら、このスケジュール時計の目的こそが、「未来予想・予知を元に最良の結果になるようなスケジュールを組んで、それを強制的に行わせる事で望んだ結果を得るためのロボット」なのではないだろうか。

そう考えると、のび太やドラえもんがこれを使いこなせない理由が見えてくる。これはだれかの怠け癖を直すための物ではそもそもないのだ。だから、このスケジュール時計は、狂っている訳でもイカレている訳でもない。「強制力を持ってしてでも、守りたいスケジュールを守る」、そういう使い方をする道具なのだ。

以上の事を踏まえると、このストーリーの見方が変わってくる。スケジュール時計がおかしいのではなく、ドラえもんの使い方が間違っている。使用するための条件が揃っていないのだ。そして、それが故に異常さが際立っており、今回の話の面白さを構成している。と。

もちろん、未来の国のひみつ道具の全てがちゃんとした物ではない。最高速度でバラバラになってしまうような欠陥のある自転車だって存在する。だが、スケジュール時計1つをとってみても、読者である僕らが「一元的な見方」をしてしまっている事がわかる。

即ち、おかしいのは道具である、今回もまたドラえもんはとんでもない道具を出したもんだな、と。

そういった見方こそが、自分で作ったスケジュールにガチガチに縛られてみたり、予定通りにいかない事に憤慨してみたりする事につながっているのではないだろうか。

さて残念ながらまだ正確に未来の事を「予知、予想、予言」する事は誰にも出来ていない。だからこのスケジュール時計は、やはりまだ僕たちには使いこなせないと思う。

一つだけはっきりしているのは、もしこの仮説通りの目的の為に、スケジュール時計は作られたのだとしたら、僕らが例え未来の国に生きていたとしても、いかなる手段や強制力を使わないと立てたスケジュールを守るのは難しいかもしれないという事だ。

要は、未来の国においても「なかなか予定通りに行動できない」という人の本質的なところは、そんなには変わっていないのではないだろうか。

人とは必ずしも予定通りに生きている、または生きていける訳ではない。とそんなメッセージをF先生が言っているのかもしれない。

もしかしたら、スケジュール時計は「予定通りに原稿を催促に来る編集担当者」がモデルなのかも知れない。何が何でも予定通りにさせたい編集担当者の異常さを揶揄しているのではないかとも僕は妄想している。

という訳でこの1コマのおかげで、A先生の「まんが道」をもう一度読みたくなった。

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