“是”
この世にあるコミュニケーションのおおよそ9割5分の中身には、意味がないと思っている。意味のある残りの5分は、「家族」か「本当に親しくしている人(かそれに類する人)」が相手の時だけだと思う。
「そんなこと聞いて何になんの」と思うことはたくさんある。
知りたいわけないのに、知ったところで何にもならないだろうに、知ったところで別に嬉しくも何ともないのに、「聞いて何になんの」と。
バイトのシフトを聞いて何になるのか。晩御飯を食べたかを聞いて何なのか。大学に行く頻度を聞いてなんなのか。
会話の中身に意味はないけど「することには意味がある」とすれば、まだ納得できる。
バイトのシフトを聞くことも、晩御飯を食べたか聞くことも、大学に行く頻度を聞くことも。会話にさえなれば、数ターン程度でも会話の厚みがちょっとでも出るなら、それでオールオッケーなのかもしれません。「言ってどうなんだ」って話じゃないのかもなと思いました。
父の日や母の日、誕生日に何かを贈ることもそれと同じで、何を贈るかとか気持ちの問題とかそんなことよりも、「なんか届いたで」の会話の方に意味がある気がする。
「情報の共有」よりももっと手前に、「会話をする」という目的がある。
もちろん、「家族」か「本当に親しくしている人(かそれに類する人)」の場合は、会話にも情報の共有の側面もある。
ただ、それに該当しない9割5分の人たちとの会話には、共有を迫られるほどの情報なんてないので、会話をしている事実だけがあれば良いんじゃないかなと思います。
少し前までは、9割5分の人に対しては「本当のことを言う必要なんてない」「嘘で良い」と思っていましたが、「嘘は付かなくても良いかな」と今は思えています。(言いたくないことは嘘ではぐらかしてやりゃあいいと思いますが。言ってやる義理はないと思うので。)
プライベートや趣味趣向に極力踏み込まない範囲で、なるべく当たり障りなく。「何聞いてきてんだ」と思われない範囲で、言葉をかわしているに過ぎないように。
#355 "是"
自分には、それ以外を求められていない。
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