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誰の心にも響かなくていい話②

これは、誰の心にも響かなくていい話です。本当です。

 少し前、通ってる大学で学祭があった。正直、行く気はさらさらなかった。なぜ他人事なのかというと、何もやることがなかったからである。サークルにも入っていなければ、一緒に巡るような友人や恋人もいなければ、見たいものも特になかった。僕はただ、学祭準備と片付けの休講だけを享受できればよかった。
 そんな平穏は両親の来訪と共に消え去った。「羽毛布団とこたつ毛布を実家から持って行くついでに、学祭にも行きたい」ということだった。当日、俺もついて行くことになってしまった。
 キャンパスに着くと広場にこじんまりとしたステージが見えた。「学祭」「ステージ」と聞いて想像されるような大層なものではない。(幼稚園のお遊戯会の倍くらいのサイズ感。)ステージでは学生バンドのライブが行われていた。20人くらいの観客がノリノリで体を揺すっていた。読んだ小説に出てきた奴らが重なる。終わったら打ち上げでもするんだろう。時にぶつかりながら練習もしてきたんだろう。

 学祭で輝いていた人たちと比べて、俺は何が足りないから現実がこうなのだろうか。

 どっかの大人が思い描いてくれて「コロナがそれらを奪った」と同情してくれるような"大学生活の思い出"だとか"キャンパスライフ"だとかは俺にはない。

 同じ大学の人でLINEが送れないこともない人は3人しかいない。そのうちの1人は高校からの友人なので実質2人ということになる。
 数少ない2人のうちの1人に「親から大量に送られてきた食材が余ってるから鍋食いにきて」と誘われてバイト終わりに直行した。集合場所に行くと、高校からの友人もいた。そういえばこの二人は研究室が同じだった。
 高校からの友人じゃない大学の人と酒を飲むのが初めてだった。そして友人には、どうやら好きな女子がいるらしい。「連絡先持ってない?」と聞かれたが、持ってるわけがない。舐めてもらっちゃ困る。

 大学で恋人を作って、キャンパスを一緒に歩いて、昼飯を一緒に食ったり、一緒に授業を受けたりして、別れて、気まずくなって、それを繰り返して、どんどん大学を居心地の悪いものにしていくことは大人が言う"大学生活の思い出"や”キャンパスライフ”に入っているのだろうか。
 大学生活を謳歌したくて、彼女がいる自分が好きで、半ばその思い出のために恋人を作って利用する、みたいな人のことを僕は下に見ている。僻みと言われたらそれまでだし、綺麗事だと言われたらぐうの音も出ませんが、順序が逆だろと真っ先に思ってしまうのです。それなのに「人生損してる」と言われるのはいつだってこちら側なのが無性に腹が立ちます。得をしているようには見えないかもしれないけど、損をしてると捉えられるのは癪です。

 僕は本の角を折るドッグイアにあまり抵抗がないので、気に入った文章のあるページの角をどんどん折って、メモ帳に文言を書き出しています。そのメモを見返した時に、別の小説なのに似た内容の文章を書き出していることに気がつきました。

いつもは私なんて透明人間扱いのに、今日は球技大会の興奮が残っているせいか、まるでみんな親しい友達みたいに話しかけてくる。
幻冬者文庫, 汐見夏衛『真夜中の底で君を待つ』, p46
このところモテているかも、という自覚もある。だが、その一方で、みんな単に高校時代の思い出作りをしたがっているんじゃないかという気もする。高校三年も後半になると、なにか感情的な記念を残しておきたいという気持ちになるのは分からんでもない。だけど、その記念品にわずかな期間だけ使われるのはちょっと、という心境なのである。
新潮文庫, 恩田陸『夜のピクニック』, p224
だから彼は用心していた。不定形な少女たちの記念品として扱われることのないように。彼女たちの卒業アルバムの思い出の一枚として収集されないように。
新潮文庫, 恩田陸『夜のピクニック』, p226

 「人の思い出作りにだけいいように使われるのは嫌だ」という内容が僕はすごく好きです。
 ただの思い出作りにいいように使われるくらいなら、僕はぶち壊してやりたくなってしまう。

 鍋をした時、「好きな子がいる」と言われて身構えた。俺にもそういう話をするターンが回ってくるんじゃないかと気が気でなかった。結果から言うとそんなもの回ってこなかったので、優しい友人たちである。
 酒を飲みながらNetflixのコンテンツを垂れ流している時間があった。そこであらためて恋愛関係のことをぼーっと考えてみた。結論はシンプルに「女の人と行きたいところもしたいことも一つもない」だった。彼女(もしくはそうなりたい人)とだったら行きたいところが生まれるのかもしれないけど、そんな人がちゃんといたことはないのでまだ知らない世界である。ないものはないのだから、俺は抗わない。

 三浦しをんさんの『愛なき世界』を読んで、僕の中にあった消極的で諦めの方向を向いている気持ちが強まった結果だと思う。

 思い出作りにだけ使われることへの憤りと、諦め。
 特に前者は、譲ったら譲り続けなくてはならない。
 心を許した方が負け。
 残酷なことに、優しさを出した方が結果的に負けるように世界はできている。

 "不満があるとすぐ口に出せるタイプ"と、”不満が溜まりに溜まって溢れると決壊したように怒るタイプ"で分けられることがよくある。僕は後者であるという自覚がある。ただ、「我慢できる」とか「心が広い」とか「優しい」とか言われるのはなんだか違うなという感覚がずっとあった。そんな綺麗なものじゃない。感情の生々しさを最大限に出すと、「相手の人格もろとも否定してしまうかも可能性があっても、それを厭う感情が対照の人物に対してなくなった」というだけである。失望を通り越した、みたいな感じと思う。我慢をしたのなら、我慢し続けないといけない。じゃないと心が狭いと言われてしまう。心をゆるしたらその時点で負け。

 だから一回、自分の人間関係を見渡してみてほしい。
 その人は本当に"優しい"人なのかを。
 その人は本当に信用していいのかを。
 その人は本当にあなたと気が合うのかを。



希望も期待も持ちたくない。


#315  誰の心にも響かなくていい話②

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